エッセイが書き手を彩る「お化粧」のようなものだとすれば、フィクションは作家の作った「人形」のようなものであるという印象を持った。
イトウモ「文学界9月号 「特集:エッセイが読みたい」についてのメモ」https://note.com/marcelo/n/n9b2181d1c111
『文學界』の特集については気にかけていて、とくにある程度の字数が割かれたエッセイについての試論はいくらでも読みたいモードである。中沢忠之さんによる『文学+WEB版』掲載の時評も直接の言及はあまりないのだけど面白くて嬉しかった。先に引いたイトウモさんによる『文學界2023年9月号』の読解はきのう見つけて、ツイッターにつらつらと触発されたことを書いた。
──イトウモメモではエッセイとフィクションを対比させる態度のもと「化粧」と「人形」という見立てがなされる。僕は前者に「演技」という語を見立てたわけだけれど、確かにこれだけだとフィクションとの棲み分けが曖昧になる。僕にとってはエッセイもフィクションも上演には変わりなく、なので劇を連想させてなんの問題もない。両者のちがいはむしろ「その上演において演技させられるのは誰か」にあるのだというのが現時点での考えだ。エッセイは、映像作品とくにホラーにおけるフェイクドキュメンタリーなんかを参照するとわかりよくなる予感がありつつ、まだあんまりまとまっていない。要はどのレイヤーでリアリティをでっちあげるかみたいなことなのだけれど。
ここまで書いた後に応答くださっていた。僕のエッセイ観について
・「本当のこと」として読まれるものである
・読者ではなく書き手が演技をする形態である
・小説ではない
この三点を「直観的に地続き」としているものだとして、この問題設定では私小説とエッセイの区別を無化してしまっているというイトウモさんのご指摘、とても面白い。
僕はイトウモさんのフィクションへのこだわりを共有できていなくて、それはエッセイをフィクションの一形態として捉えているからかもしれない。そのうえで、エッセイは非常に低コストで立ち上げられるフィクションであるとも考えている。簡単であることへの危機感みたいなものも持っている。僕はエッセイをモキュメンタリーのようなやくざな形態というか、書き手と作中主体を素朴に同一視されるだろうことを逆手にとって「本当のこと」を簡便に擬制する手法であると捉えているのだと思う。
「私が言っていることは全て嘘である」いうのは自明のことで、ことさらに宣言することでもない。となると先のエッセイもフィクションであるというのも言及の必要はなかったかもしれない。僕は嘘のつき方、嘘をつく際に利用する資源をどの価値体系のレイヤーから引っ張ってくるかに関心がある。エッセイは「フィクションである」という前提をあたかも共有できていないものかのように、書き手も読み手も共謀して「本当のこと」であるかのようにして受容していくところが面白くて、これはちゃちではあるがだからこそ国家や家なんかとは別様の共同幻想を形成しうるみたいなところに期待もある。
こんなことを考えながら連投していて、案の定どんどん散らかってきた。散らかすだけ散らかすと、明治期の私小説の実践を、現在において試行するならばエッセイとして行ったほうがまだ何かがある、みたいな気持ちがあるのかもしれない。先の中沢「私小説論批判」を思い出しつつ、要は僕は花袋が成功しなかった場合の自然主義文学の発展史を妄想するならばそれはエッセイのような形式になっていったのではないか、というようなことを妄想している。私小説とエッセイの近接は、前者が「正当」な系譜に置かれたとすると、後者はありえたかもしれない可能性に留まっていた傍系がときおり表出しているようなもので、だから同根で似通ってもいるのだが、何かが決定的に違う。そのはじめのところでどうして分岐したかが重要なのだというような。
ぼんやりと労働の合間にああだこうだと垂れ流していると今度は中沢さんより応答いただく。
先の研究によりますと、明治30年代は小説にしても様々な文体やジャンルと繋がっていて、自立していたわけではないというところはあるようです。確かに色んな可能性があったかも。独歩の作品なんてまさにそうだし、木村洋さんの『変革する文体』によると自然主義は透谷や樗牛を意識していた。
永井聖剛さんの『自然と人生とのあいだ』を読むと、『中学世界』などの教育雑誌文学雑誌の読者投稿の文章なんかも影響があったんだろうなあと思います。それから永井さんにも木村さんにもある重要なことで、文学の私的なものは公的なものとの緊張関係においてあったということですね。
こういう自然主義理解は小林秀雄の頃には忘れられていたのではないかという気がします(プロ文史観で透谷ー啄木ラインが公式化されるのだったか)。柿内さんも宮崎さんも触れられている昭和初年の宮廷女流日記の「発見」はそういう忘却のもとでの美(私)的なものの政治的利用という側面があるんだろうと思います。女流日記文学については鈴木登美さんが書いていたかな。なので柿内さんの「嫌になる」という感覚はよくわかるというかなるほどなあと思いながら読みました。
https://x.com/sz6/status/1697865931329057217?s=46&t=P8naJHLI5UvXF4TGuRLbuw
僕の妄想の元ネタは木村洋『変革する文体』と大塚英志『怪談前後』なので、まったく知らなかった永井聖剛『自然と人生とのあいだ』をさっそく購入。鈴木登美『語られた自己: 日本近代の私小説言説』は図書館にあったので予約。買うと借りるの差は図書館にあるかないか。読むのが楽しみ。久しぶりに京極夏彦以外の本へと食指が動きそうな予感がありつつ、読み終えるまでは逃れえないんだろうなとも思う。一冊ずつしか目を通せないというのは困る。同時に何冊も読むことはできないというのは人間の不便なところだと思う。
今日は「H.A.B ノ冊子」の原稿を仕上げるつもりで、外出先でびしばし書いた。それで久しぶりに読むではなく、書くほうの回路が活性化したようで、日記も長くなっていく。なんなら原稿よりも長い。
いきなり関係ない話なのだけれど、僕は最近だれかの家に遊びに行きたい。友達の家に遊びに行って、夕食やお酒やおつまみの買い出しにみんなで連れ立って出かけていく、あれが好きだ。あれをやりたい。一晩限りの共同性の構築。一緒にいられる環境を協力し合いながら整えていくこと。
夕方、紀伊国屋書店の五階で『歌というフィクション』を買って、それから新宿のディスクユニオン前で小野寺伝助さんが『クソみたいな世界で抗うためのパンク的読書』の即売会に立ち寄る。「H.A.B ノ冊子」メンバーにはなんだか勝手に親しみを覚えている、仲間というか、もうすこし緩めの連帯意識。照れちゃってあんまりお話はできなかったけれど、格好いい本とタオルを手に入れた。
