2023.09.04

百鬼夜行シリーズを読んでいて、ああ、これは東京の話だったのだなと思うことが多い。雑司ヶ谷だの池袋だの上野だの神保町だの、当時はすべて実体のない架空の名詞とそう変わりがなかった。いまではどこも歩いたことのある場所で、それぞれの路地と記憶が紐づいている。昭和20年代半ばという舞台設定の妙もよくわかる。戦争による断絶がありながらも、祖父母の代で明治だ。いまだ近代化が身近な年長者の生きた思い出として息づいている。『塗仏の宴』にまできて、やはりこれも読んだことがあるような気がする。徐福や太歳星君といった名詞はFGO で親しんだ。なにはともあれ小学生の頃とは反応できる固有名詞の量が違う。未知よりも既知のほうが多くの内容と予感を含んでいる。きょうは朝から元気がなくて、天気も悪いから仕方がなさそうで、本もあまり読めた気がしなかったけれど支度は済んで始末に移っている。人ではなく場が考え、記憶するのだ、ということを子供のころから感じていて、それは保坂和志と京極夏彦の影響でもあろうが、素朴に誰もがもつ直観ではないだろうか。場が考える。自分よりも前に関係が先に立つ。近代とは平準化で、フラットさは自律する個人を要請する。場と切り離された個人という幻想が成立してしまう。しかし、やはり場が先なのだと思う。にんにくは包丁の腹で潰すんだよ、そう奥さんに教えられなるほどとひっくり返して押し込もうとしたらギャアと言って取り上げられた。そこは峰というらしい。血みどろになるつもり? と呆れられ、きょうは包丁使っちゃダメだからね、と気遣ってくれた。やさしい人だ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。