2023.09.03

引き続きイトウモさんの投稿について考えていた。「有名人のエッセイであればその人についての本当の話であることがやはりウケる」というのはその通りだと思う。そしてこれは有名人がおのおの自分はこのようなキャラクターであると示すテキスト外での諸実践によって形成された「約束事」であり、有名人のエッセイはこれを資源として活用するというだけだとも。

昨日の「歌舞伎町のフランクフルト学派」でも指摘されていたようにパフォーマンスはただそれ単体では成立せず、ファンダムのような共同体もひっくるめて広義のテキストのように捉える必要がある。文筆単体でそのような共同性を確保することは可能か、言い換えれば書かれた文章外の諸実践や実績を資源としてもたない無名の個人が、「書かれたものと読者とをどういう約束事の中で結びうるか」というところに僕の関心はあるのかもしれない。そのために、窃視的な要望を刺激しつつ、それに奉仕しない戦術としてエッセイの技術を考えている。

僕は昨日こう書いた。

エッセイは非常に低コストで立ち上げられるフィクションであるとも考えている。簡単であることへの危機感みたいなものも持っている。

しかしこれは簡単であるから悪いだとか、安易だとか、劣っているというような話ではない。むしろ簡単であるから劣っているという感覚のマッチョさのほうに対抗したいくらいだ。

「非哲学者による非哲学者のための哲学入門読書会」に参加していても、簡単に済ませるということの困難を思う。きょうの読解法の実践を見ていて、以前酒井講師に指摘された自分の「一本釣り」的な読みは、本書の「一筆書き」と非常に親和性が高いとようやく思い至り、頭を抱えた。とくに訓練されていない読者による読み方と、この読書会で推奨される読み方の異同は、職人と技術者のちがいと似ているという印象をもった。 自分ふくめ多くの読者は前者のようにしか読めていない。これは、単純な作業が複数組み合わさっている行為について、日常において多くの人は、いちいち要素ごとに分解して順序に従って実行していくわけではないからだ。そんなことをせずとも大半のばあい単純な作業の集合を集合として意識せずとも遂行できてしまう。人はふだんの行為を簡便に遂行することを可能にするために、単純作業の集合を圧縮して暗黙知として蓄えている。この圧縮された暗黙知は局所最適に特化するために必然的にバイアスがかかっており、ふだんと条件がちがう場面ではうまく動作しない場合がある。その場合は一度これを分解して条件に合わせて再構成する必要があるのだが、学習しないことには、つい手持ちの暗黙知の体系を別の体系に無茶に照らし合わせてしまいがちである。これが読めていないという事態なのではないか。

読書会で投影されるパワポを見ていると、本をそのままでは読めずレジュメでないとうまく理解できないという奥さんの認知体系についてもよくわかる気がした。リニアにべたっと書かれる文章を、構造を可視化すること。現場の単眼的でありながら高度に複層的な業務の手順を、一要素ごとに分解し、配列し直すこと。そのようにして構造が目に見える形で再配置された情報に特化した認知の仕方。これはまさしく技術者の読み方である。僕はわりあい、べたっとしたテキストをそのままさらっと読んで構造を把握できてしまう。僕はこれまで単純作業に分解しきっていない状態で職人的な「勘」だのみの読解に頼り切っていたのだな……、と改めて認識した。京極堂に憧れて、榎木津化していたわけだ。そのうえで能力は関口君並ときた。

神保町での読書会のあとは奥さんと落ち合って、ロイホでパフェを食べて、デパートでキッチン用品を吟味して、服を試着して新鮮な姿になっているのを見せてもらって、お酒を飲んでうきうき帰った。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。