あまりにも気持ちよくぱっちりと目覚めたものだから、きょうは休日なのだという確信をもってしまった。それは出勤してもなお続いていた。
『塗仏の宴』を読んでいると、その最終回っぽさに面食らう。当時はこれが最新作だったはずで、これ以降の作に食指が動かなかったのはこれがもう最後であるとしても驚かなかったからかもしれない。まだ読了していないから、次を予感させる畳みかたをするのかもしれないけれど、きれいに収束させているのなら、もはやここからは余計になりやしないだろうか。そんなことを考えている。ディティールに見覚えはあるのだが、展開は何ひとつ覚えがなく新鮮だ。このシリーズはこうした読者の記憶のいい加減さがよく似合う。読書というものの信用ならなさを自問自答するような感じなのだ。
原稿を書いていて、機嫌がいい時に書かないとだめだなと思う。書くコンディションを整えるとはとにかく機嫌をよくすることだ。機嫌が悪いときは書いてはよくないし、書いていて機嫌が損なわれるならそれはあまりうまくないということだろう。
エッセイは演技であるという態度を表明していると、エッセイとフィクションの区別みたいな話になりがちだけれど、僕はあまりこの区分に興味がないというか真剣に考えることができない。たとえばドキュメンタリーの被写体は演技している。そこにカメラがあるからだ。しかし俳優でもない人間の振る舞いは、劇映画におけるタレントなんかよりもずっとリアリティを帯びている。この人たちはそこにカメラがあるということを秘匿しないで、そのストレスも混みで振舞っていることをスクリーンのこちら側の観客も了解しているからこそ、むしろ照れや躊躇いの表出にこそ本当っぽさを感じ、あまりに淀みがないと嘘くさく思う。かといってあまりにもカメラを意識されてしまうと鼻白んでしまう。エッセイはカメラを向けられた素材としてどう振舞うかの技芸であり、露骨にアピールしてもいけないし、かといってそのままでもいけない。それではドキュメンタリー作者の都合のいい物語へと搾取されるばかりだろう。差し出されているのはそのままの事実なのだという錯覚を覚えさせる技芸。書く場合、カメラも素材もどちらも自前で担うことになるところが面白いのだと思う。自分で自分を素材としての自分と作家としての自分との緊張関係へと追い込んでいく。酔狂である。
夕食の蒸し豆腐が絶品だった。「虫どうふ」と変換されてやめてほしかった。さあ、とうとう未読の領域だ。『陰摩羅鬼の瑕』だ!