横浜方面に用事があるときはなるべく東横線の各停に乗って白楽でいちど下車する。といっても年に一度あるかないかの頻度になってしまっているけれど。Tweed Books に行きたいからで、今日は手前の妙蓮寺で降りて生活綴方も覗いた。気持ちのいい本屋で、本も明るいものや清廉なものが多かった。なんとなく乗代雄介の気分で国書のパンツか星があったら買おうと思っていた。なかったのできょうは何も買わずに全力をTweed Booksに傾けることに。僕はこの数年本屋に立ち寄ったら必ず一冊買うようにしていて、それは楽しかったからなのだが、いつしかこのマイルールが枷になって本屋から足が遠のくような本末転倒があるような気がして、さいきんは買う基準をすこしシビアにしてみている。今は同時代の本を読むことにそこまで関心がもてない時期であるからというのもあるだろう。
白楽まで歩いて、好きな古本屋に着く。挨拶を先にするか迷って、まずは匿名の客としてじっくり棚を吟味したいと思うのはいつものことで、静かに執拗に店内を周回する。実家にあった平凡社の黄色い本『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』を見つけて、これはうちにもあったほうがいいなと考える。鳥山石燕『画図百鬼夜行』は国書からでている大判のやつが実家にあってこれは僕のだから今度もってかえる。大陸の妖怪について思いを馳せていたら中公新書の『〈鬼子〉たちの肖像 中国人が描いた日本人』というのが目に入って、大陸の目で捉えられた異人たちの列島がどのようなものであるか興味が湧いた。現在の時間や空間に対する意識と感覚。それとはまったく異質のありようについて考えるのが好きだ。べつの環世界を、周辺の環境──法や慣習、言語や経済──から素描してみるような試みにはつねに心惹かれる。岩波の『中世文化のカテゴリー』もよさそう。近代以前の認知体系を考えることでいまとは別様の「私」や描写を考えるという関心のありようは先月の『文學界』への寄稿を準備する段からなんとなく輪郭を帯びてきたところがあって、そのためには近代を準備する近世との狭間の時期、あるいはうんと遡って和歌や漢詩にまつわる美意識の機制を勉強したいと思っている。そこで兵藤裕己『演じられた近代』、大岡信『詩人・菅原道真』も外せない。芝居を通じて〈国民〉の身体感覚を創成しようという試みと、大陸からの文化をみずからに移入しつつ別様のなにかに生成しようという道真の試み。
レジにもっていって、京極夏彦の新刊が出たから『山海経』は持っておきたくなって、と話すと、そこから京極堂談義に華が咲く。細川さんも大学時代に相当入れ込んだとのことで、ふたりして目をキラキラさせてにやつきながら本の話をしていて、ああ、こうやってただのファンとして楽しみだとか面白かっただとか衒いのない感想を言い合うようなお喋りは楽しいですねえ、となんだかとっても嬉しい気持ちだ。
中華街で奥さんと合流して、悟空でお茶っ葉と月餅を買ってから早めに着いた人たちがなんとなく集まっているという喫茶店に顔を出すと懐かしい人たちがいて、冷たいものを飲んだ。週末のごった返す中で雑貨屋の奥の階段から上がるここはガラガラで、いい穴場を知った。きょうはすてきな友人が発起人となった南粤美食ですごい粥を食べる会。奥さんはじめ多くの人は半年前からこの日の約束を取り付けて楽しみにしていた。なにせ予約をとるのもたいへんで、最低でも十六人いなければならないというのだからこれはもはや結婚式や国際会議並みのおおごとなのだ。そのくせ僕は一万円以上するすごい粥という情報以外はとくにいれておらず、喫茶店で交わされるいよいよ……ついに……十四種類もの……という断片からかなり怪しい儀式であることだけを把握した。わんこお粥みたいなことだろうか。様々な種類のお粥をちょっとずつ食べるコースなのかな、などと常識的な推論もしつつ、きっと儀式が終わる頃には何かが召喚されたりするんでしょうね、みたいな軽口を叩いていた。
時間が近づいてお店に向かう。テープルはふたつに分かれていて、喫茶店で合流した顔見知り同士がなんとなく固まる。もう半数は発起人をハブとしつつもほとんど面識のない方々で、仲良くしたい気持ちはありつつもついつい旧知の安心に集まってしまう。ビールを頼んで、そわそわお粥を待っていると、感じのいい店員は塩蒸し鶏の大皿を持ってきてくれる。お通しということだろうか。うっかり軽率にこれを平らげてしまうとせっかく出汁にするつもりだったのに、と叱られたりするかもしれない。すこし警戒しながら骨までしゃぶる。鳥の骨のつきかたは変だと思う。なぜ骨のなかにまた肉があるのだろう。けっきょく鶏はおいしく完食した。車海老です。こんどは海老だ! ボウルにいっぱいぷるぷる張りのある海老たちを見せてくれる。わあい、と声をあげる。そのまま後ろの台で煮込んでいるようだ。それから大振りの帆立も見せてくれる。立派な鮑も見せてくれた。真っ赤になった海老が給される。殻ごと頭からむしゃぶりつく。じゅわっとまろっとした肉汁が広がる。うまい! これから煮るものたちをどんどん見せてくれる。浅蜊、椎茸。椎茸がすっごく大きい! IKEAのクッションコーナーみたいにふかふかに積み上がっている。そのたびにカメラを向けると、ありがとうございまーす、と誇らしげに返事をしてくれるので僕はすっかり店員さんのことが好きになった。僕はここらでようやく、まずはこれらを順に煮込んだものを食べさせてもらって、最後にそれらすべての具材の断末魔を結集させたお粥にありつけるという、この晩餐の概要を察知した。煮込む前の具材のお披露目と、じっさいにいい感じに仕上がってほかほかといただける順番にはズレがあって、しかし写真からは見せびらかされた順番しか読み解けない。ひとまず思い出した順に書いていこう。透けるような烏賊のぷりぷりっぷり、生姜と一緒に瑞々しい名古屋コーチン、椎茸大好き、ほんの一欠片に数十羽のエキスが詰まっとるんちゃうかというほど濃厚な鶏団子、練り物のような軽やかさの白身魚団子、凸凹した肌理を噛み締めると弾力と出汁が無限に楽しめるセンマイ、赤々とした生の時点で既に幸福の表象然とした和牛。ここまでにすでに味覚のクライマックスが四度ほどあり、『RRR』のようなずっと決めゴマ全部サビ、みたいな豪勢さにくらくらしていたのだが、ちゃっかりビールから紹興酒にシフトしていた。ここからは休憩というか、クールダウン、徐行でしょ、そんな気持ちで完全に舐めていた大根、長芋、南瓜といった野菜たちが、これまたそれぞれに完璧に主役だった。とくに大根。あんな美味しい大根は食べたことがない。この大根に染みた出汁は、これまでのすべてのご馳走の名残そのものなのだからそりゃすごいに決まっている。そしていよいよお粥だ。揚げパンと貝柱が投入されて、ほとんど米の形の残っていない汁の姿をした旨味の饗宴が振舞われる。度重なる最終回のあとの大集合。喝采がきこえた。誓っていうが、これはまじだ。一口目ですでに恍惚のあまりすべての表情筋は弛緩し、焦点はどこにも合わなくなって、これまでにいただいた生物たちへの感謝と、食べたら終わってしまうという儚さとでむしろ悲壮感さえたたえていたかもしれない。こうして、夢のような上演は終わった。なぜ時間というのは渦中ではうまく噛み締められず、過ぎ去って初めてその素晴らしさを自覚させられるのだろう。みんなで写真を撮った。ほとんど会話していない、どころか結局名前も知らないままの人たちに対してさえ、なぜか親密さを感じ始めていて、おいしい料理というまじないはすごいものだ。やはりなんらかの儀式だったにちがいない。
腹ごなしにすこし歩いて山下公園で雑に海を眺める。それからゆるゆる解散していく。向こうのテーブルにいて話してみたかった人のうち何人かとは駅のホームまでの道すがら、あるいは電車の中ですこしお話ができた。そこでは熱くアイナナの話がなされた。僕はその場でアプリをインストールした。主人公の苗字は小鳥遊というらしいから、反射的にプリズムが煌めいて名前を「おとは」としたが、思い直して「おかゆ」に直した。こうして僕は、きょうの晩餐会を忘れたくないという思いを込めた、小鳥遊おかゆという名前でIDOLiSH7のマネージャーになったのです。
