今週頭にリュックを買い替えて、すぐには外出の機会がなかったのでそわそわ荷物の詰め替えだけしていたのをじっさいに使ってみたのは水曜からで、きょうで三日目になるけれどかなりいい感じで嬉しい。あたらしい道具を手に入れるとなんとなく生活が刷新されるような錯覚があって、この錯覚が好きだ。無駄にあれこれ詰め込んで遠出したいと思う。傘や雨靴を買えば雨の日がすこしマシなものに思えるし、服を買えば人に会いたくなるし、カメラを買えば見るものの位相が変わるし、本を読めば出会うものとの関係のありようが複数化する。おでかけしたくなる買い物はいいものだ。長持ちするといいな。
楽しみにしていた『鵼の碑』は、その楽しみにふさわしくがつがつ読まれて昨晩読み終えてしまった。一日早く手に入れたから、二日で、日付としては発売日には読了してしまったことになる。ほかの本であればなるべくじっくり読みたい気にもなるけれど、これはこういう読み方がふさわしい。いちから読み始めてこうして最新作までいっぺんに平らげて、満足感がある。奇しくも僕たちがMANKAI STAGE『A3!』の夏公演に通う最終日でもあったわけで、この夏を彩った小説と演劇がまとめて区切りを迎えた。楽しい夏だったな。でも百鬼夜行は終わらない。これは次回作が楽しみということだけでなく、まだ読んでいないのがあるということだ。新刊が出たから先にそちらに飛びついたけれど、きょうは途中で放り出した『百鬼夜行 陰』を読み終えて、続いて『百器徒然袋』に手を付けた。これはおそらく『鵼の碑』にも関係しそうな薔薇十字探偵社の面々の中編集のようだ。それでもほかの本との併読ができるくらいの余力は出てきたので、うきうきあれこれ手を出す。
読書というのは時間をつくる営為だなと考える。たとえば昨日は読了時間の検討をつけるために一ページあたりの所要時間を測ってみたけれど、読んでいるあいだの数十秒や数分は、ずいぶんと変質したそれである。もちろん音楽や映画や演劇でも時間は変質する。おしゃべりもそうだ。ぼけーとしているときと、没入しているときとでも体感する時間のありようは随分ちがう。けれども多くは、関係する対象の側の時間に巻き込まれたり付き合うことで変容を楽しむことになるのに対し、読むというのはこちら側から働きかけない限りその独特の時間は成立しないというところに妙味がある。京極堂のように読み始めてしまえば流れるプールのような読み口のものでさえ、こちらが文字を目で追わなければどうにもならない。働きかけなければ動作しないという意味では、読書とは料理やスポーツのほうと似ているところが多い。そして、そういう自分で時間の質に手を加えるような感覚を培っておくと、音楽や映画や演劇の受け取り方もなんとなく前のめりなものになるような気もしている。演劇の場合、遠近による差異もある。きのう最前列で観劇したエーステについて奥さんが面白いことを言っていた。2.5次元舞台はもともと配信や円盤で映像として受容されることも多い形態であるから、ホールサイズの大劇場で成立するだけの大きさとカメラでクローズアップされても鑑賞に堪えうる細やかさの両方が並立するような演技が求められている。だから昨日のように間近で観ると、大劇場なのに小劇場の目で演技を見ることができてしまうのではないかと。近さにおいて鑑賞者の目は、発話者よりもその発話を受ける側に注意を払うというのは映画も同じことだろう。遠景においては画面全体での運動を追うが、クローズアップでは眉や唇の微細な揺らぎをこそ注視する。大きな運動はそれ自体なにかを発しているが、小さな反応はつねに何かに対する応答である。遠目にもわかる大きな運動を受容する細部を見つめるには、近づかなくてはいけない。小劇場はこの近さこそが面白いのだが、小屋のサイズを考えずにやたら大ぶりな演技に白けることも少なくない。2.5次元舞台はこれを大劇場用に増幅させた演技においても成り立たせてしまうというのだから、なかなか特殊な技能であるようにも思える。そもそもエーステに関しては鬘やメイクの質が向上していった結果、すでにだいぶ三次元に肉薄していて、しぜん演技もアニメーション的な誇張ではない方向へと変化しているような感じもある。三次元なのだからこの言い方はかなり変なのだが。