ことばの一般的な焦点というものが結びにくい時代と言われて、まさにそういうふうに思うんですけれども。 ちょっと別の話からいくと、石牟礼道子の文学にとっての水俣という経験がある。石牟礼さんにとっては、水俣というものが、ことばをことばとして上滑りすることを禁止するものとしてあるわけでしょう。このへんはあとで小阪さんなんかの見方からするとどうかということを、もう一度お訊きしたいんだけれど、三里塚と水俣を比べてみると、一番大きな違いというのは、水俣の場合セクト同士の内ゲバがないわけですね。それは不思議な話でね。でも現地で見ていると非常によくわかるんで、たとえば石牟礼さんという存在があるわけでしょう。彼女がなんにも言わないで、にこにこ笑って見ていると、何々派と何々派の内ゲバというようなことが、ぜんぜんアホらしくなってくるんですね。そういう不思議なところがあって。石牟礼さんというのは背後に水俣の漁民たちの世界みたいなものがあって、そういうもののある種のよりましみたいなものとしてある面があると思うんです。
漠然とした言い方になるけれども、ことばをことばとして上滑りすることを禁止する力をもった、小阪さんのことばを使えば経験とか、リアリティとかそういったものが、八〇年代の現在の市民社会のなかでは、どういうふうにあるのか、あるいはどういうふうにないのか、ということがことばの問題としては、ぼくはそこに関心がある。
自分にとって切実なリアリティをもっていることばが、相手にとっては空疎な「ことばでしかない」ということは、おそろしい体験ですね。
若い世代の批評家とか思想家のなかで、一般的に感ずる感じ方というのは、自分の時代の文化とか、言語空間の規範性とかに「からめとられている」という意識があって、ディスクールばかりじゃなくて、おそらく感覚そのものもからめとられているという意識があって、それが逆に言うと「外部」に出たい、外に出たいという、いわばその時代の言語空間の外部に出たいというか、そういう欲望が、いろんなさまざまな形をとってでてきていると思うんです。外に向かって突き抜けたい、外に出たいという欲望を非常に強く感じるわけです。
『見田宗介著作集Ⅱ 現代社会の比較社会学』(岩波書店)p.95-97
自分にとって切実なリアリティをもっていることばが、相手にとっては空疎な「ことばでしかない」ということは、おそろしい体験ですね。 この言葉を、ほんとそうだよなあ、と読み、そのあとにつづく八五年という「現在」の状況についての判断に身を乗り出した。いま交わされるあらゆる言説の基底にあるのは、とにかく自身の思考や感覚を規定するコードの強固さへの予感であり、その「外部」へ出たいという衝動が先立っている。外へという衝動の上に批評や思想がある。これはいまでも変わらずある状況のようにも思える。自分にとっての切実なリアリティが、結局は構造的に形成された仮構物に過ぎず、そのために他者の目からすれば類型的な「ことばでしかない」。そのような状況からの脱出を欲望すること、このような感覚に見田は共感を示しつつも、それだけでは悪循環に陥るのではないかとも危惧している。外部の追及の徹底は、いまの内部を突破したあとに至るところもまた内部になってしまうという形で、外部への無限後退にしか帰結しないのではないか。このような際限のない外部の希求は、それじたい近代の病である。
さっきの水俣の話はぜんぜん異質のものだけれども、わざと異質のものからコントラストをとってくると、石牟礼さんのことばにとって水俣のリアリティがあって、そういうポジティヴなリアリティみたいなものが、石牟礼さんのことばというものを空転することを禁止している。 水俣病の水俣ということではなくて、それ以前の水俣ですね。ところが、現代の市民社会のなかで、そういうものは見出しにくくなっている面がおそらくあって、外部へ外部へという思考が抽象的な否定性の無限後退みたいに、外部へ出たと思った瞬間にそれはまた内部であると、当然そう思うわけで、そうするともっと外へということになるわけです。
そういうある種の狭所恐怖症、抽象的に無限化された狭所恐怖症は、それ自体近代の病であるととらえるわけです。外部へという場合に、ぼく自身の感じで言うと、何者かへの内部へという、外部へという衝動が必ず、何者かへの内部へという感覚を伴わないと、じつはほんとうは外部へ出られないという逆説があると思うんです。これは際どい点なんだけれども。
何者かへの内部へというポジティヴなものというのは、悪くするとからめとられるのは、民族だとか階級だとか共同体だとか、そういう閉ざされたものにからめとられると、一番つまらない形態になるわけであって、イメージとして言えば、これはことばとしてはあんまり言い切れていないんですけれども、さしあたり、変なものに誤解されないためにだけ言っておくと、存在の輝きにたいする感受性みたいなもの、そういったものとして、暫定的に言っておこうかと思うんです。そういう開かれたものに、そういうものの内部へということがないと、逆に外部へと向かう衝動が抽象的な無限否定になって、ほんとうの外部へは出られないだろうという感じがひとつある。
同書 p.98-99
すべてにリアリティを感じられないからといって、あらゆるものを虚構であるからダメなんだと否定し尽くしていくだけでは結局なんの充実も得られない。それは見田の言い方に倣えば、「色即是空にとどまっているかぎりは色即是空にもなれないのであって、空即是色にならないとほんとうの外部へ出られないんじゃないか」という予感であるし、真木の言葉を借りれば「明晰」だけでは足りず「コントロールされた愚かさ」もなければ「心ある道」を歩けないということだ。僕なりに敷衍すれば、生きてるのっていいなと毎日うれしく過ごすためには、なんかみんな生きてたり存在してるというワンダーを見失わないでいる必要があるよね、ということだろう。とにかく生きているっていいなという気分に何度でも立ち返らせてくれる思想というのはすごいので、知性の使い道を間違えそうになったらそれって存在の輝きにたいする感受性をもてていますか? と自問したほうがいい。
夜は奥さんと合流してジェラートを食べて、『ガールズ&パンツァー』を観る。最終章4話。3話を立川で観たとき、FGO を始めたのだった。だからもう三年弱も経っているのか。面白さが極まり過ぎてソリッドな印象。手に汗握る展開というよりも、とにかく動きが面白いから楽しいというそれだけで引っ張るようなところがある。もはやキャラクターの「萌え」──これはもう死語なのだろうがこの作品のデザインはやけに古風なのだ──で引っ張るところがほとんどなく、なんなら顔や身体すら描かれず観客の目は戦車そのものと同化する。一時間弱に濃縮されたドラマは起承転結などの構造すら放棄してただ只管に「戦車道」を見せつけてくるので、異様な緊張感がある。ドラマとしてはだれ場というのは必要なのだよなというようなことも思いはするが、しかし小一時間ずっと試合のあいだ起こり続けることに反応しているだけで夢中になれるというのはやはり稀有だ。面白かったな。なんだか滋味深い面白さだった、そう話しながら夕食を食べて、一杯ひっかけて帰る。
