週末の『会社員の哲学』読書会にむけてメモをTwitter に書いていく。てきとうに思いついたものから放っていく。そのなかで我ながらよさそうだと思ったもの。
読者が前々から考えていたようなことを
・格好よく大袈裟に言う→哲学
・チャーミングに言う→エッセイ
・考えていた通り(かのよう)に言う→小説
・思いもよらない発見のように言う→批評
・より大多数に伝わりやすいように言う→入門書
非常に大雑把な印象論にすぎないのだが、なかなかそれらしい気もする。僕は原則としてものを書くとき、読む側と考えていることがだいたい似たようなものであることを前提としている。平凡な生活者が考えるようなことはそう大した違いはなく、そんなものわざわざ文字に残しておこうと思いもしない。ほんとうのところ、書かれたものを読むまでしっかり言葉に成形されてなんかいないのだが、だからこそうまくまとまらない言葉で考えていたようなことを読むと、なんだ、べつに大したことじゃない、このくらいのこと俺だって考えてた、などと気分がよくなるものだ。僕は自分の考えていることは大勢がすでに考えていると思っているし、誰もわざわざ公言しないようなことを言葉にしてしまうという野暮な愚行として自分の書くものを捉えている。
しかし、さいきん不安になってきた。もしかして、自分の考えていることって、変なんじゃないか? それなー、みたいなお喋りみたいなものとして読み飛ばされることを見越して書いていたものが、珍妙なものとして面白がられていたとしたら。今度の読書会ではこのあたりを参加者の方々と擦り合わせてみたいものだと思っている。
これまでも面白い考えですね、などと言われることは少なくなかった。でもそれはお世辞で、よくもまあそんなわかりきったことを恥ずかしげもなく開陳できますねえ、という呆れをおくびにも出さず生温かいやさしさでくるんでくれた表現なのだと受け取っていたところがある。あるいは、とはいえそういった自明で陳腐な感想を面倒くさがらずに言語化する労を励ましてくれているのだと。でも、もしそうでなかったとしたら。
もちろん、このような不安こそ陳腐である。自分の考えているようなことは誰にも分らないという感覚こそ、大半の他人たちと共有できるありふれたものだ。だからこそ、僕は、なぜだか多くの人と同じように感じ考えるという不思議のほうにこそ関心がある。なぜわかってくれないか、ではなく、なぜわかってしまうか、が気になる。それに、だいたい似たようなことを感じ考えているという信頼なしに、なにか喋ったり書いたりなんかできなくないですか? すいません、不安のあまり急に話しかけてしまいました。
急いで自閉すると、僕は奥さんが頭を痛そうにしていると自分も頭痛をおぼえてくるというほどに奥さんとの自他の境界が曖昧になってきているのだが、それでもお互いの書いたものを読むと、そんなこと考えていたんだね、と驚くことになる。これは、ほぼ毎日同じものを食べて同じような時間に眠っていることで明日食べたい献立もおのずと似通ってくるというように身体感覚をどれだけ同調させたところで、表出された言葉がなければ考えや感覚は共有しえないということだ。驚きながら、寂しいような気もするが、どちらかというと好きな人の考えを知れたといううれしさのほうが強い。
退勤後は昨年から約束していたRyotaさんとのカラオケ。ようやく行けた。座ってしまうと無限に喋って解散になってしまいかねないので、立ち飲み屋でさくっと串物とビール。文芸誌が毎月届く生活について所感を述べ合ったり、直近の落語シーンについて教えてもらったり楽しく過ごした。個人的な白眉は僕が早くもフェードアウト気味で、Ryotaさんは毎日更新している声日記について話題になった時、プラットフォームLISTEN の自動文字起こし機能が謎に暴走して最新のポイエティークRADIO の文字起こしがちょっとしたホラーであったと教えてもらったことだった。文字起こしによれば、僕らは十分弱「あ、でもね、」と繰り返し発声したことになっている。しかも、その何十行も連なる「あ、でもね、」のあとに続く言葉が絶妙に怖い。
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
あ、でもね、
ずっと待ってたじゃん。
ずっと待ちすぎて、
なんか、 ずっと待ってんだけど、
https://listen.style/p/poietique/f3plydaf
怖すぎ! とゲラゲラ笑った。
待望のカラオケで、緊張したが、さくっと一曲目をRyota さんが入れてくれてスマートだった。そこからは順番こに歌った。いいじゃないですか、こういうのもいけるんじゃないですか、とおだててくれるので嬉しかった。友達とふたりでやいやい歌うのは楽しかった。高校生の放課後みたい。Ryota さんはCreepy NutsやVaundy、米津玄師などナウい曲を歌いこなしていて格好いい。何を歌っても自分のスタイルが確立されている感じがあった。そのくせ米津は七割がた本人だった。僕は渥美清に憂歌団、「バス・ストップ」だ。自分には昭和歌謡しかないということがわかった。『雑談・オブ・ザ・デッド』の共著者とのカラオケということで締めくくりには「徒花ネクロマンシー」を歌った。満足だ。あとこれはその場では予兆すら見られなかったことなのだが、東京事変を歌い上げるRyotaさんの姿を思い返すうちに、じぶんも椎名林檎を歌ってみたいという天啓がおりてきた。天啓って降りてくるもので合ってたっけ。引越しの話をしたからだろうか。帰り道、川の方へ降りていって、ほとんど黒く塗りつぶされた河を眺めてにこにこしていたらものすごい時間が経過していた。帰宅してシャワーを浴びて、恐ろしいことにもう更新されているRyota さんの声日記を待ちくたびれてぐったりしている奥さんに聞かせているあいだにドライヤーを済ます。それから簡単に日記を書く。自分でやっているぶんにはいいが、人が一緒に遊んだその日のうちに日記を公開しているとなかなかビビるということがわかった。
