2024.04.15

昨晩の録音で五誌の創作が充実していてたいへんだと零すと奥さんがトリッパーもあるじゃんと言いやがるから、今月の小説は二十五作から三十作に増えた。土壇場でゴールラインを向こうにずらされたようなやるせなさがあるが、こちらが目を逸らそうとしているところに無邪気に直視を強いてくるこの人のこういうところに助けられてきたはずもなく、つねに追い詰められてきたけれど、しかし後から振り返れば助けられてはいるのだとも思いはする。しかし渦中はただしんどい。誤魔化したい。しかし今月はいい小説が多いと思う。芥川賞は上期と下期で二回あるはずで、ここまでの感じだと新作小説というのは半年に一作面白いものがあればいいほうで、そういう意味では受賞はそんなに大したことではないのではないかとさえ思いこみ始めてしまったほどであるが、もしかして賞を見据えるようなものは期末にどーんと放出されるのかもしれない。そうであれば来月もしんどそうである。とはいえ、これは間違いなく受賞するだろうと思うような作品はまだないし、そもそも誰が受賞前であるのかさえよくわからないでいる。僕は小説はよくわかんないなとずっと思っている。というか、小説とはこういうものでしょみたいな一般通念に似たそれを素朴に疑わずに済ませているかのような文字列にまったく面白さを感じられないというか、たかだか小説、というような恥の意識や醒めた認識が不在であると、こちらが照れたり白けたりしてしまうようだ。文学に価値なんてないと思う。お金にもならないし。それでもいまこんなことをやることにどんな意味や楽しさがあるのかというのを真剣に考えていることがわかる小説に惹かれる。「文学」みたいなものにロマンチックな夢を見るのは無理だし、かといって多数に届きうる娯楽性を追求するわけでもない純文学というジャンルはだいぶ変で、僕はその中途半端さがだんだん面白くなってきた。ゾンビ映画のようなものだ。おおむね何でも入れることのできる箱であり、ガワへの批評性と中身のレイアウト次第でどうにでもなる印象を楽しむものなのだろう。であれば、量をこなせば見えてくるものもあるであろう。ただ、そこまでして楽しむほどのものなのだろうかという疑念は拭えない。僕は小説を読むのが下手だ。下手なものが巧くなると面白くなるだろうそれはたしかに楽しみではあった。

これまで好んで読んできた、小説や美術を扱った批評や評論で僕が読み損ねていたところがあるとすれば、どれだけ衒学的に書かれていようとそれはほとんどただの感覚の描写に過ぎないということではないかと思われてきている。突き詰めていけば、あらゆる表現への価値判断は「なんかいい」か「なんかよくない」かというふわっとしたもので、そのような言語面からすれば頭のよくないような感覚の鋭さこそが核なのであろう。あらゆる概念を遊ばせつつも、論理的整合性や学術的妥当性よりも「なんかいい」を優先してしまえるバカらしさが批評にはあって、要は知識や知力よりもセンスが競われているというのが実態なのだといまは納得してみることにしたのだ。衒学的な振る舞いができる程度には明晰なのであろうが、その実、言語感覚が鋭いだけのバカ、ものを知っているだけのバカが、そのような気質やデータを自身のバカのほうを強調するためにこそ総動員してなされる営為として制作も批評もある。そのようなものとして考えていたが、逆なのかもしれない。鋭敏な感覚のほうが先にあって、それをなんとか言語化しようと悪戦苦闘する、その結果として制作や批評があるのかもしれない。感覚が先立つのだ。僕にはこの発想がなかった。感覚とは言語で開発するものだと思っていた。だから芸術一般を享受できる人たちを自分よりも言語的に賢い人たちなのだと思い込んでいた。けれども、そうではないのかもしれない。

言語に捉われず、ぱっと感覚できる体か否かという話なのかもしれない。なんかもっと、言葉の扱いが下手という意味でのバカになって、感覚で読むものなのかもと思うようになってから、詩歌の見方もずいぶん変わった。言葉を使って言葉を解体しようとしているのでさえなくて、言葉より前にある散逸を仮に言葉によって構築してみようとした結果としてあるのだと。

この発想の転換は個人的にはものすごい衝撃である。僕はこの日記のような文字列とほぼ同じ内言が覚醒時にはつねに流れているようだし、思考や意識とはそのような言語活動そのものであると信じて疑わないところがある。言葉にならない感情とは生理感覚であり、それはただまだ意識の手前にあるものだ。そのような肌や内臓からの反応をどのように解釈して言語化するかというのが意識の機能であり、そうやって感情は意識に変換されるのだという発想をもっている。作品の読解とは、言語による意識が先だってあり、それを読み解く言語に無茶させることによって生理感覚へと変換していくという逆向きの操作なのだと思っていたということなのだが、そうではなく作品というのはまず生理感覚に働きかけており、言語の手前、意識の手前でまず受け取るものなのかもしれないというのが今日こうしてだらだら書いている発見である。そうであるならば、僕はほとんどの作品を言語に阻まれて受け取りそびれていることになる。

でもこれは本当だろうか。さすがに盛っているのではないか。僕が映画が好きなのは、それこそ映像に耽溺することで、たまに鬱陶しくて疲れるこのような内言を中断するようなことを望んでいたからである。つまり内言は中断されうるのであり、しかし映画を見るあいだ意識が途絶しているというわけでもあるまい。となると映画を見る時間、僕はやはり言語=意識という図式をゆるめ、解体し、非言語の感覚をまず感覚し(これは映画を意識していることになるのだろうか)、見終えた後に野暮ったく言葉に翻訳しているのではなかったか。わからない。わかるのは、享楽できた映画に限ってほとんどなにも覚えていないということだ。これは、ただよかったという感覚だけが言語化される間もなく霧散していくようなことで、やはり意識に捉えられる前に逃げ去ったと考えたくもなる。奥さんやその友人は、よかったライブや芝居のあと、よすぎて記憶が飛んだ、と話す。あれはつまり、内言の謂いである意識が捉えそこなうほどの強度を持った感覚に体が曝されたということなのではないだろうか。内言によって実況中継されなかった、取りこぼされる感覚の残余のほうをこそ、制作や批評は言葉にしようとしていたのだとしたら。僕がこれまでほとんど内言の表出としてしか認識していなかったあらゆる文字列が、言葉の手前で受け身にある賢く敏感な体を持ったものたちがぼんやりとした感覚だけを頼りに盲滅法に塗りたくられた一筆の運動の反復であるかのように立ち現れてきて、考えるな感じろなんてブルース・リーの台詞が相変わらずの陳腐さで、しかしこれまで以上の深い納得と共に思い起こされる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。