午前中の仕事をこなし、昼前に第一次ポストチェックに行くとすでにそれらしい封筒が届いている。二次三次の必要がなくてよかった。わくわくと持ち帰る。でかでかと「文學界」と印字された茶封筒に太いペンで手書きの宛名が几帳面に置かれてある。すごいなあ、と素直に嬉しくなる。権威には弱い方なので。開封前に奥さんに記念写真を撮ってもらう。それから開けて、写真を撮ってTwitterで告知をする。亀にも見せびらかす。東京堂書店に単著が置かれるというのは武道館なら、「文學界」掲載は紅白出場だろう。どっちが嬉しいかは人によるが、紅白に出れば田舎の親族も本屋さんで手に取ることができる。それはすごいことだ。奥さんの両親は一緒になるときに本棚も一緒になるが『乱調文学大辞典』がダブった、そんな筒井康隆と同じ媒体に文章が置かれていると思うとミーハー心も疼くというもの。今どき文芸誌というのはどれだけの部数が出ているのだろう。そのうち「エセー」まで目を通すのは一〇〇人くらいだろうか。「エセー」のコーナーは、2.5次元舞台でいうとアンサンブルみたいなものなのかなと勝手に思っていて、というのは、舞台に立てただけで光栄とかで済ませられなくてきちんと舞台の一部でありたいと思って取り組んだということだ。そんなに多くの人が注目してくれるわけではないかもしれない。それでもとちれば全体に影響を及ぼす。ちゃんとできているか、それは自分で判断することではないと思う。いい思い出になったなという自己満足ならばすでに発注をいただいた段階で済んでいて、すでに納品し終えているのであればそれはもうパフォーマンスとして評価されるほか仕方がない。だからこそ、悪くないなと思ってもらえたら、感想や原稿依頼をどしどしいただきたい、そして何より『プルーストを読む生活』がどかっと二〇〇冊くらい売れてほしい。そのためには少なくとも僕の想定する倍以上の人数に「エセー」を読んでもらわなくちゃ困るが、いいですか、こういうのは数ではないし、そもそも最初の想定からしてなんの根拠もないではないか。ともかく文芸誌にのったということは、これはもう文壇デビューと言っていいのではないか、だったらやはり調子に乗って作家とか文筆家とか名乗り出すかなどとあっさり転向を検討していたけれど、文學界も巻末の紹介では「会社員」と言ってくれていた。これが嬉しかったので、これからも町でいちばんの素人としてへらへら書き続けていきます。
弟から「蓮實重彦と同じ雑誌に載ってるのやば!文筆家だ!」とLINE が来る。
午後は『都市への権利』を読み終えて、僕はフランス現代思想みたいなやつはだいぶ音楽のように読んでいて、要は雰囲気で読んでいる。だから意味はよくわからなかったがそれは楽理がさっぱりわからないのと同じで、それならそれで、なんかよかった、と感じることはできる。だから内容がどれだけ把握できたかはともかく、なんか格好良かったし、いろいろと発想を得た気もする。いい思想は風景が浮かぶ。だからまあたぶんいい本だった。『日常的実践のポイエティーク』へのいい助走になった感じ。
お灸してお風呂で『歩きながら問う』。前半は面白かったが後半はそれこそ李珍景が以下でやんわりと牽制しているような、マッチョな党派性が滲み出るような論考が目立ってすこし白けた。インタビュアーの思惑からしてどうだったかはわからないけれど、下記の発言は僕の「運動」への偏見を開いて、楽しい運動の可能性を感じさせる風通しのいいものだったし、スユ+ノモは、知は忍耐を必要とするものではなく喜びを増幅させるもの、知は力を誇示する道具ではなく友達を作るもの、というスタンスが僕は好きだった。
ソ社研から離れる過程で、もうひとつ切実に感じたことがありました。たとえば、実際はかなり小さな問題、小さな違いだったことが、互いの対立ないし敵対へと「発展」していくのはよくあることですが、以前はそれをとりたててマジメに考えていませんでした。しかし、そのときはどんなに些細な感情的問題から生じたこ とでも、互いが互いを非難・批判するようになったという過程を経験したんです。その過程で、たとえば私の場合には、他の人々の立場を理解しようとしてみるというよりは、私が持っている物差しで他の人々の行動や態度を批判していましたし、おそらく相手もそうだったんでしょう。それが後に、その問題を理論的な論点、路 線的な問題へと拡大して討論しようとするのを見て、逆に私たちが知っている数知れない分裂と対立は、ある意味で、些細な感情的問題がこのように「深化」し、「発展」していったものではないのかと考えるようになりました。実際私が考える正しい/間違っているという判断基準は、自分が正しいと信じることであり、自分 が言うことこそがたいてい皆正しく、自分と異なる考えは皆間違っていると考えるのが当然じゃないですか? ところが、そういうふうに常に自分の考えと異なるものを自分の基準で批判する限り、自分と異なっていること、自分との差異を肯定することが不可能なのは明らかです。
金友子編訳『歩きながら問う』(インパクト出版会)p.251
