2021.03.04(2-p.16)

日付が変わっても僕のKindle には『チェンソーマン』が来ないから諦めて寝て、そわそわしていたので七時くらいに目が覚めて布団の中で読んでまた寝て起きた。最高。タツキは信じられる。POP LIFE の『チェンソーマン』回をようやく安心して聴けて、奥さんと頷いたりしていた。自分たちがポッドキャストで話した内容と共鳴する部分も多くて、みんな、そこ語りがるよねえ、という感じ。語りを誘発するというのはいいのだけど、Twitter でそれをやると白ける感じがいつからか僕にはあって、Twitter が2ちゃんねる化する過程があった、みたいな発言に行きあたってその正体が少しわかった気がした。そうか、いまSNS って掲示板なのか。さらにはかつての増田や小町っぽさも含めて、全部を全部Twitter が引き受けているような気が僕はしていて、それぞれのクラスタが目に見えるところで寄り集まって自閉していくというのがしんどいのかもしれない。「社会」も「連絡網」も、僕はべつにそんなに信じてもいないし好きでもないな、と思うようになってきた。最近はFGO──これもソーシャルらしいのだが──と他人のポッドキャストが暇を埋めていて、そのおかげでTwitter が自然と減っている。殊更にSNS を嫌いだというつもりもないというか便利さや楽しさもちゃんと享受しているのでなんともなのだけど、つぶやける場所としては僕はもうポッドキャストの方が合っているように思えて、140文字よりは40分とかの声のほうが、どうでもよさを担保できるような気がしている。どうでもいいことを言っていたい。どうでもいいことの切実さをバカにしちゃいけない。なんでもかんでも政治や経済の闘争や競争に載っけちゃだめなんじゃないかなあ、と思うのだけど、まだうまく整理できていない。わかりやすい文脈に安住できないものを愛でたいというか、文脈や整合性に馴染みきれないもの達の余白を残しておきたいというか。

昼にハンバーガーを食べたらもたれた。『チェンソーマン』が来たので次は『文學界』の到着をそわそわと待つ。僕はこういう荷物の到着を待つというのが非常に苦手だ。だいぶ自制しないと30分おきにポストを確認しに出てしまいそうだった。商業誌への掲載は幼稚園の時ぶりだ。その時は、コロコロじゃなかったと思うがなんかそういう漫画雑誌で、読者の考えたさまざまな惑星を人格を持った宇宙船が旅して回る、みたいな漫画が載っていて、僕は「おばけのほし」みたいなので載ったのだ。ステッカーとサイン色紙がもらえたが特にその漫画に思い入れはなかったのでステッカーはうれしくなかったかもしれない。『文學界』のステッカーは欲しい。それでその「おばけのほし」は兄弟のおばけが二人きりで住んでいて、とても優しい性根をしているのだけど見た目がお化けだからみんなに怖がられてしまって悲しい、みたいな設定を書き添えていて、いま思ってもなかなかシブい幼稚園児だと思う。『シザーハンズ』の影響だろうか。その回はメインは「めいろのほし」で、「おばけのほし」は迷路のハズレの出口に配置されていた。主人公の宇宙船は涙を流しながら再び迷路に逃げ込んでいく。それを読んで僕はどう思ったか、たぶんちょっとがっかりしたというか、考えた設定が面白がられたわけではなく、漫画のストーリーに配置するのに都合が良かっただけだったんだな、というような気持ちになったのではないだろうか。僕はそれこそそういう見た目で「悪」とされてしまう異形のものへの多分にティム・バートンにかぶれた愛着を感じていたはずで、そういう部分が踏み躙られてあっさりと恐怖の対象として扱われたことが当時からけっこう悔しかったのではないか。商業誌への掲載は幼稚園以来と思って改めて思い出してみると、今でもやけに鮮明なあの一コマ二コマの映像は、いい思い出としてというよりは、はっきりと失望の色を帯びている。これは今から振り返るとそう感じるということではなくて、子供は子供なりに自分は軽んじられたのだということを敏感に察知する、あの時はっきりと表明する手段も必要もまだわからなかったけれど、それでもはっきりと不当に扱われたと感じたからこそこうもはっきりと覚えているのだとなぜだか断言できる気がする。断言してないやんけ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。