2025.07.07

あれ、今日って七夕? そう奥さんがひとりごちて、あ、いや、明日か、と言ったのが昨日だった。だから今日は七夕で、七夕といえばいつも雨や曇りだった、そのような印象が強いのだけれど、きょうは晴れている。腹立たしいほど暑い。こういうとき、円環的な季節のめぐりが壊れているのを実感する。

『内在的多様性批判』の割り込みで待機していた『社交する人間』を再開。山崎は経済には二種類あり、政治もまたそれらに対応するように二種類あるのだという。 一方に生産と分配の経済がある。これには、安定した生産のために同質性が求められ、共通の目的と帰属意識を強めるような静的で組織的な統治が対応する。このような固定的で階層的な秩序原理は、分配の範囲を明確に定めるような排他性を帯びる。 もう一方に贈与と交換の経済があり、こちらは異質なものたちの対立を内包している。調停不可能なばらばらの他者同士が、それでも共存してやっていくための儀礼的作法の洗練に基づいて、絶えず信用と権威の所在が移ろうような商業と社交が繰り返される。こちらは動的で非組織的な統治が対応している。

政治的な場において、前者がナショナリズム、後者がグローバリズムとして提示されるものと相似的である。だいたいの対立は、政治観、経済観の対立というよりも、むしろ二種類のそれらを混同して語ることによって泥沼化しがちだという感覚がある。お互いに政治や経済の定義を争っているつもりでいながら、実は別種のそれらがすれ違い続けているのだ。

金さえ払えば誰にだってなんだって売るという商人的な節操のなさが実現する、多様で相対立するものたちの、部分接合的な共同性があり、これは二〇世紀以降のリベラリズムと結びつきながら、超国家的で、新自由主義的ともいってよいような文化を形成してきた。これは経済成長を前提とした拡大であり、景気の停滞とともに閉鎖性のほうへと揺り戻しが起こる。現状を先の山崎に即して見立ててみると、贈与と交換という拡散的なサービス産業の隆盛がピークを迎え、再び生産と分配の排他的な政治経済が盛り上がってきているということなのだといえる。まあ、そもそも山崎も注意を促すように、この二種類の政治経済は分離できるようなものでなく、密接に絡み合っているものではあるし、これまで続いてきた資本主義経済というのは、むしろつねに外部を発見しては搾取と収奪を繰り返していくというような、生産と交換の魔合体的な性格が強く、贈与と分配の機能が不充分であるがゆえに格差が際限なく広がるものであるわけだから、一方から他方への移行という見取り図はわかりやすいが、そこまで実態に即しているとも思えない。いまの政治状況において声高に争点になるあれこれというのは、生産と分配を問題化しているような見せかけを持ちつつも、実態としては生産と交換に偏重する現行の資本主義を加速させるものにほかならないよな、という悲観をもっている。うんざりだよ。

今週のポイエティークRADIOでは選挙のたびに具合が悪くなると話したが、幼少期からメインのグループに馴染めたためしがない僕のようなものにとって多数決というのはふつうに勝ち目がないので、勝ちを取りに行ってもだいたい仕方がない。よくて、ここに異議があるぞ、という意思表示にしかならない。選挙の公約なんていうのはマーケティングに過ぎないので、基本的に当選したら即実現されるようなものではない。だからその是々非々で投票先を決めても仕方がなく、むしろある候補者の公約から透けて見えるターゲット層に異論がある場合、その層の意思決定を制御しうる別の候補を選定するほうがよい。意思決定を加速させる幻想に投票するのではなく、むしろ拮抗させるバランスを目指して投票先を決定する。そもそも勝ち目がない少数がそれでも議席を取ろうとするならば、少数側でまとまらなければどうにもならないのだが、少数の側はだいたいより細分化してしまうものなので——ここで妥協しつつ結託できるくらいなら教室でも上手くやれた——与党への不満の大半はポピュリズム政党に吸収されてしまう。げんなりだよ。

ふう。嘔吐のように書き出して多少はすっきり。帰宅即シャワーじゃないとどうにもならない季節になってしまった。夏はだめだ。戦争の話が増えるし、選挙もあるし、暑いし、眩しいし、冷房きついし、寝れないし、猫はそっけないし、いいことがない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。