2026.01.23

でかい本はあとがきや訳者解説から読む。『書き取りシステム1800・1900』でキットラーは「書き取りシステム」をこう定義している。《ある所与の文化において、有意味なデータをアドレス指定し送り、記録保存し、処理することを可能ならしめる諸技術と諸制度のネットワーク》。これはけっこう使えそうな枠組みだと感じる。

「中村拓哉のひとりりある」の最新回が絓秀実『小説的強度』についてで、そこで弁証法というものはどうしたってルサンチマンによる逆転みたいなところがあってしまうから、そもそもその外部を確保しないといけないんだというような話をしていた。つまり、前後関係だとか、優劣だとか、主人と奴隷みたいな二項があってそれらが相克する、みたいな関係の外を志向しようという話として聞いた。『小説的強度』は読みたいが古書は高いので復刊したら買いたい。

理論と実践、抽象と具体、そのいずれにも振り切らず、引き裂かれるというか率先して分裂する態度が批評だとして、実践一辺倒の趨勢が強い状況においては、あえて理論に偏重することはそれこそ批評的介入たりえるだろう。しかし、そうやって片目でだけいても仕方がない、やはり実践への目もまた必要なのだと『理性の不安』で坂部が読み解くカントはいう。

直近で辛い物を食べた覚えがないのにお腹の調子が悪く、排便後お尻がひりひり痛い。なぜ。

夜は代わりに読む人の事務所でマクルーハン『メディア論』の読書会。友田さんと読書会でご一緒するのは『2666』以来で、だから六年ぶりだ。六年かあ。もう六年も柿内をやっていることになる。当時の目算ではすでに五冊くらいは単著が一般流通しているはずだったし、去年の初めくらいまでは焦りもあったように思うが、いつもの間にか、出せばいいってもんじゃないし、と社交などにかまけるようになっており、そうなのだ、もとより僕は何やってるかわからない人になりたかったのだった。六年でどこまでそうなれただろうか。話し言葉と書き言葉の調停、みたいなことを今日もまた話しており、友田さんにも、それはこれまでもずっとやってきたことですよねというような指摘をいただけて、だから何をやっているのか分類はしにくくても関心や性質はほとんど変わらないまま続けてはいるのかもなあとも思えた。簡単に飲み、早めに退散。夜道は、服着てなかったら死ぬな、という寒さだ。しかし家が都心から遠い。アクセスできないわけではないが遠い、というのが自分には適していたのだとも思う。まったく断絶しているわけでも、べったり癒着しているわけでもない。社交の距離感。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。