2026.02.24

寝坊。でもおかげで体内時計をリセットできた感じがある。のんびり出勤。赤坂までの道で急ぎ足で再読を終えていた『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』の最後の方を読み返す。

あらゆる言述が会話の地平に引き下ろされ、そのくせ書字行為がもつ歴史の主体へと生成していく志向自体は失われていない。そのような状況の中で「書く」とはどういうことでありえるか。書き手の立場や視点(大谷の時枝的にいう〈場面〉)は読み手と決定的に異なっていることを、書き手の側は嫌というほど意識しているのだが、読み手は自身の〈場面〉を書き手と共有していると錯覚して読むことができてしまう。このねじれは、ラジオのそれとも通じるだろう。日記がほんとうに流行になっているとしたら、それは、書き手と読み手が〈場面〉を共有してはいないというのが自明であることによるのかもしれない。すべてが会話になってしまうことに、誰しもが疲れている。いや、こうした日記さえおしゃべりのような気分で読まれているという実感もまたあるわけで、だから一概には言えない。むしろ、すべてをおしゃべり感覚で読んでしまうというところにこそ、「素人」の可能性を見ているというのは僕の一貫した態度でもある。

正義の領域と愛の領域。私的な商売におけるバザールとクラブの比喩で両者をどう区分するのか。あるいは、クラブをどのようにつくるのか。正義の書き言葉が愛の話し言葉として聞かれてしまう。大谷は、吉本隆明の「自己表出」(固有の生としての現れ)と「指示表出」(全体の側からの位置づけ)という語を活用しつつこう述べた。〈もしツイッターにおいて「美」というものがあったとするのなら、それは、書くことと話すことのあわいに生まれる、まだ何処へ向かうのか理解不能な極小の表出たちを、決して単純にこれまでの「指示表出」性の体系には従わせないぞ、という意志に宿るものであっただろう〉(三一八頁)。しかし、特にそこがXと名指されるようなジェントリフィケーション以後、「指示表出」に回収されつくしてしまったと診断したのがたとえば福尾匠の『置き配的』なのだと思う。福尾はこの文脈での「指示表出」として「メタデータ」と書いている。社会規範や制度から逸脱した「自己表出」を、「指示表出」の側に差し戻すのが小説の探偵がやっていることなのだと大谷は書いているが、つまり置き配的社会とはシャーロック・ホームズの理想郷でもあるといえるかもしれない。

きのうの日記を読んでくださった工藤郁子さんとDiscordでやりとりして、Lifeの延長戦のようで楽しかった。そこで僕は、文化系トークラジオLifeが演者が楽しんでる様子を楽しんでもらう構成になっているのは、僕自身が学生の頃Lifeを「知的なやつらの『水曜どうでしょう』」として楽しんでた経験からもよくわかるうえで、楽しそうな「内輪」にうっかり参加できちゃったという感覚が抜けないので、リスナーからの欲望と羨望に敏感であらざるをえないのかもしれないということを文字で話した。すると工藤さんは

「それは柿内さんが「特権」をどう引き受けるかみたいな話なんですかね。マジョリティーとしてというよりも、さらにマスメディアに出演する少数の権威として?」

と問いかけてくれる。「ここがまさに混乱してるところですが、でもそうなのかも」と僕は書く。僕は「そのへんにいるマジョリティーとしての素朴な読者=素人」でしかないといまでも思ってるんですが、ラジオだけ聞いたり寄稿だけ読む人からしたらまったくそうは思えないだろう。マジョリティとしての「特権」へのたぶんに過剰なまでの自覚と、少数の権威として見られかねないという状況とのあいだで戸惑ってる……?

「柿内さんはすでにカルチャーエリートですよ」

APT.もちゃんみなも知らなければ、博士号ももってないのに……

「カルチャーエリートになるのには資格はいらないので むしろ「在野」の方がかっこいいまである」

引き受けるしかないのか、カルチャーエリートを。

「引き受けなくてもいいのですが、そのためにはだいぶ長い弁明と非エリート実績?が必要ですし、それでも周囲は納得してくれなさそう〜」

これまで何度も「会社員」とか「素人」とかに逃げるなと叱られてきましたが、はじめて腑に落ちた。実績も知識もない胡散臭い山師としてのカルチャーエリートは、「売れ」だけが根拠になるという発想があり、それにしては名の売れてなさが半端だなぁとはつねづね思っている。引き受けるためにはやはり売れねば、という気持ちと、てきとうに賃労働して家で好きな本だけ読んでいたいという気分のあいだでずっと堂々巡りしていたが、「周りから見たらすでにそう」と信頼できる人から言い切られると、そうなんだ、と納得するほかない。憑き物が落ちた感じがするなあ、と思っていると「カルチャーエリートの特殊性として、「売れ」以外のルートがあるという点を見落としているかもしれません」という指摘もあり、これもまたハッとする。工藤さんはすごいなあ、お話ししていて楽しいなあ。調子に乗って、今晩シャーク鮫くんとLife振り返り回を録音するのですが一緒にどうですかと図々しく打診してみる。快諾いただいたので、うきうき準備をする。Discordでの録音ってどうやるんだっけと調べてみて、人にも訊いて、本田受信料さんに教えていただいたCraigというBotを導入してみる。これは帰ったらテストしておくべきだ。

奥さんはきょう親知らずを抜いて、神経にさわると麻痺が残るかもと脅かされていたので心配だったけれどあっさり抜けたとのことで、前に抜いた時はパンパンに腫れていた顔もすっきりしており無事だった。よかった。

夕食のやたら豪勢な味わいの、豚肩ロースの塊肉がとろとろに煮込まれた「概念ビーフシチュー」に舌鼓を打ち、録音のテストをする。問題はなさそうだったのだけれど、いざ録音し始めるとやたら音声が遅延して有線イヤホンを取り替えたりもたついてしまった。せっかく時間を取ってもらったのに、と焦っていると、ポイエティークRADIOらしさはこういうとこですよね、と工藤さんにフォローのお言葉——フォローなのか?——をいただく。録音中、いつも以上にタメ口と丁寧語の混乱が見られ、考えてみればリモートでの録音がずいぶん久しぶりなのだった。お二人とはこれまでたぶん対面でしかおしゃべりしていない。こんなにもリモートって難しいんだっけ、というか顔が見えていない中で僕は上手く喋れないんだなという再発見があった。しばしば混線もしたが、楽しくやれた。シャーク鮫くんがいい感じに調音してくれると言うので甘える。

録音を終えて戻ると、鎮痛剤のタイミング間違えた、と奥さんが痛そうにしていて、無事とはいえ無事じゃないよなあ、と思う。『ユリイカ』の見本誌と、メルカリで買ったGRⅢが届いていたのでひとしきりはしゃぐ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。