寝坊。でもおかげで体内時計をリセットできた感じがある。のんびり出勤。赤坂までの道で急ぎ足で再読を終えていた『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』の最後の方を読み返す。
「録音された声」と「音楽」によるこの(引用者註:「映像」と「言葉」による)劇の「オペラ化」を経由して、ぼくたちは二一世紀の現在、「書くこと」と「話すこと」がきわめて近接しているスマートフォン上のSNSを使って、また再び「言語活動の力」を巡る闘争の現場に立っている。SNS上では、その入力の容易さと、発言の双方向性と、常時接続による過剰なまでの文脈の増加によって、「書くこと」はかぎりなく「話すこと」へと近づけられている。ここでぼくたちは、まるで誰かに話しかけるように何かを書く。しかし、やはり「書くこと」は「話すこと」とは異なり、それがどんなに小さな一文であったとしても、「いまは夜である」という命題に代表されるように、書く/読むという主体の切り離れから生まれる「疎外」の経験を稼働させてしまうものなのだ。
SNSに投稿することによって、ぼくたちは「話すこと」によって生み出される親密な言語活動と、「書くこと」に備わっている祭式性、疎外性、歴史性とのあいだで引き裂かれることになる。この引き裂かれにはぼくたちを、いまだ声と文字とが不分明だった時代、つまり、ぼくたちが字を書き習い覚えたその最初期の段階へと立ち返らせる力が備わっているのではないかとぼくは思う。ぼくたちは、おそらく、「文字」を使って「会話」をおこなうことによって、幼児期に経験した「文字を覚えるまでの過程」への退行を経験しているのである。ツイッター上の言述とは、一度は習い、そして抑圧し忘却した、ぼくたちの幼児期から青少年期へと向かう「近代化」への学習経験が「書き言葉」として回帰したものなのである。
「書く」ために排除し、忘却してきた幼児期の言語が、最大八八〇〇万もの人々が読むことが出来るような場所に次々とリリースされてゆくこと。このような場所では、「熟議」をおこなうために提出された文章も、精神の高みへと向かって組み立てられてゆく命題も、それはつねに「会話」的な有用性に傾けられたコトバによって横滑りさせられ、「リズム的場面」の段階にまで引き下ろされて、親しい人の口と口とのあいだで交わされる符号に充ちた言語活動に変換されてしまう。ある書き込みに「wwwwwwwww」というコメントを付けることは、あるいは「イイね!」というボタンを押すことは、サムズ・アップによって「文章」を「会話」にするための〈場面〉に組み込もうとする行為なのである。
大谷能生『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』(フィルムアート社)p.308-309
あらゆる言述が会話の地平に引き下ろされ、そのくせ書字行為がもつ歴史の主体へと生成していく志向自体は失われていない。そのような状況の中で「書く」とはどういうことでありえるか。書き手の立場や視点(大谷の時枝的にいう〈場面〉)は読み手と決定的に異なっていることを、書き手の側は嫌というほど意識しているのだが、読み手は自身の〈場面〉を書き手と共有していると錯覚して読むことができてしまう。このねじれは、ラジオのそれとも通じるだろう。日記がほんとうに流行になっているとしたら、それは、書き手と読み手が〈場面〉を共有してはいないというのが自明であることによるのかもしれない。すべてが会話になってしまうことに、誰しもが疲れている。いや、こうした日記さえおしゃべりのような気分で読まれているという実感もまたあるわけで、だから一概には言えない。むしろ、すべてをおしゃべり感覚で読んでしまうというところにこそ、「素人」の可能性を見ているというのは僕の一貫した態度でもある。
正義の領域と愛の領域。私的な商売におけるバザールとクラブの比喩で両者をどう区分するのか。あるいは、クラブをどのようにつくるのか。正義の書き言葉が愛の話し言葉として聞かれてしまう。大谷は、吉本隆明の「自己表出」(固有の生としての現れ)と「指示表出」(全体の側からの位置づけ)という語を活用しつつこう述べた。〈もしツイッターにおいて「美」というものがあったとするのなら、それは、書くことと話すことのあわいに生まれる、まだ何処へ向かうのか理解不能な極小の表出たちを、決して単純にこれまでの「指示表出」性の体系には従わせないぞ、という意志に宿るものであっただろう〉(三一八頁)。しかし、特にそこがXと名指されるようなジェントリフィケーション以後、「指示表出」に回収されつくしてしまったと診断したのがたとえば福尾匠の『置き配的』なのだと思う。福尾はこの文脈での「指示表出」として「メタデータ」と書いている。社会規範や制度から逸脱した「自己表出」を、「指示表出」の側に差し戻すのが小説の探偵がやっていることなのだと大谷は書いているが、つまり置き配的社会とはシャーロック・ホームズの理想郷でもあるといえるかもしれない。
きのうの日記を読んでくださった工藤郁子さんとDiscordでやりとりして、Lifeの延長戦のようで楽しかった。そこで僕は、文化系トークラジオLifeが演者が楽しんでる様子を楽しんでもらう構成になっているのは、僕自身が学生の頃Lifeを「知的なやつらの『水曜どうでしょう』」として楽しんでた経験からもよくわかるうえで、楽しそうな「内輪」にうっかり参加できちゃったという感覚が抜けないので、リスナーからの欲望と羨望に敏感であらざるをえないのかもしれないということを文字で話した。すると工藤さんは
「それは柿内さんが「特権」をどう引き受けるかみたいな話なんですかね。マジョリティーとしてというよりも、さらにマスメディアに出演する少数の権威として?」
と問いかけてくれる。「ここがまさに混乱してるところですが、でもそうなのかも」と僕は書く。僕は「そのへんにいるマジョリティーとしての素朴な読者=素人」でしかないといまでも思ってるんですが、ラジオだけ聞いたり寄稿だけ読む人からしたらまったくそうは思えないだろう。マジョリティとしての「特権」へのたぶんに過剰なまでの自覚と、少数の権威として見られかねないという状況とのあいだで戸惑ってる……?
「柿内さんはすでにカルチャーエリートですよ」
APT.もちゃんみなも知らなければ、博士号ももってないのに……
「カルチャーエリートになるのには資格はいらないので むしろ「在野」の方がかっこいいまである」
引き受けるしかないのか、カルチャーエリートを。
「引き受けなくてもいいのですが、そのためにはだいぶ長い弁明と非エリート実績?が必要ですし、それでも周囲は納得してくれなさそう〜」
これまで何度も「会社員」とか「素人」とかに逃げるなと叱られてきましたが、はじめて腑に落ちた。実績も知識もない胡散臭い山師としてのカルチャーエリートは、「売れ」だけが根拠になるという発想があり、それにしては名の売れてなさが半端だなぁとはつねづね思っている。引き受けるためにはやはり売れねば、という気持ちと、てきとうに賃労働して家で好きな本だけ読んでいたいという気分のあいだでずっと堂々巡りしていたが、「周りから見たらすでにそう」と信頼できる人から言い切られると、そうなんだ、と納得するほかない。憑き物が落ちた感じがするなあ、と思っていると「カルチャーエリートの特殊性として、「売れ」以外のルートがあるという点を見落としているかもしれません」という指摘もあり、これもまたハッとする。工藤さんはすごいなあ、お話ししていて楽しいなあ。調子に乗って、今晩シャーク鮫くんとLife振り返り回を録音するのですが一緒にどうですかと図々しく打診してみる。快諾いただいたので、うきうき準備をする。Discordでの録音ってどうやるんだっけと調べてみて、人にも訊いて、本田受信料さんに教えていただいたCraigというBotを導入してみる。これは帰ったらテストしておくべきだ。
奥さんはきょう親知らずを抜いて、神経にさわると麻痺が残るかもと脅かされていたので心配だったけれどあっさり抜けたとのことで、前に抜いた時はパンパンに腫れていた顔もすっきりしており無事だった。よかった。
夕食のやたら豪勢な味わいの、豚肩ロースの塊肉がとろとろに煮込まれた「概念ビーフシチュー」に舌鼓を打ち、録音のテストをする。問題はなさそうだったのだけれど、いざ録音し始めるとやたら音声が遅延して有線イヤホンを取り替えたりもたついてしまった。せっかく時間を取ってもらったのに、と焦っていると、ポイエティークRADIOらしさはこういうとこですよね、と工藤さんにフォローのお言葉——フォローなのか?——をいただく。録音中、いつも以上にタメ口と丁寧語の混乱が見られ、考えてみればリモートでの録音がずいぶん久しぶりなのだった。お二人とはこれまでたぶん対面でしかおしゃべりしていない。こんなにもリモートって難しいんだっけ、というか顔が見えていない中で僕は上手く喋れないんだなという再発見があった。しばしば混線もしたが、楽しくやれた。シャーク鮫くんがいい感じに調音してくれると言うので甘える。
録音を終えて戻ると、鎮痛剤のタイミング間違えた、と奥さんが痛そうにしていて、無事とはいえ無事じゃないよなあ、と思う。『ユリイカ』の見本誌と、メルカリで買ったGRⅢが届いていたのでひとしきりはしゃぐ。
