けさ冷えていたからやや暖かめの格好をしたのだけれど日中は汗ばむ陽気だ。五月の連休前には真夏日が来るという予報も見かけた。もう暑いのか。ついこのあいだ生命の危険を感じずに上着なんかも羽織っちゃってお出かけできる気候は嬉しいなと思ったばかりな気がする。
この日記が読書メモめいてくるということは本を作る準備をしているということで、一冊にまとめる前の断片のデッサンという感じになるが、こういうときの日記がいちばん書くのは楽しい。読む側からしたらそうではないだろう。読むほうにも読む必然を感じさせるように配列するというのは本にする作業の中でする苦労であって、まずこういう形かな、とあたりをつけて書きだしてみるときにそのような配慮の余裕はなく、とりあえず書けそうなことから書いていくほかないからだ。次の本はあれこれと考えすぎて何度も頓挫しているけれど、自分にとって目新しいものを書くのではなく自明のことを書こうと方針を決め、そのうえでまだ書けそうにないものに挑んでみるというのがどうしたらできそうかというのを企んでおり、おそらく見田宗介/真木悠介、柄谷行人、伊多波宗周『社会秩序とその変化についての哲学』を愚直に読みつつ、素人くさく密猟し、脱線し、飛躍することで、ふだんづかいの生活方針を誰にでも伝わるように提示することを頑張りたい。
柄谷『ヒューモアとしての唯物論』は『ゲンロンy』で批判的に言及されており、このヒューモアとイロニーの整理は僕も『随風』の連載で使っているので再度確認したかったのだが、どこで読んだんだったか『反文学論』だったかそれとも『日本近代文学の起源』だったか。まったく思い出せず文庫を買ったのだが、表題作を読むとやはり僕はこの話を読んだことあるぞと首を傾げるほかない。どこかで繰り返されているのだろうがどこだったかなあ。まあコンパクトにまとまっているので嬉しくはある。で、改めて頭から読み始め「個体の地位」「交通空間についてのノート」「一つの精神、二つの十九世紀」あたりを読みながら次の本について考えたことを雑にメモしておく。
うちとよそ、つまり内部と外部について考えている。真木と柄谷はマルクスが「社会」を「共同体」と対置していたことを指摘している。「共同体」とは共通の規則によって機能する構造をもつが、そうした共通の規則が通用せず内的構造の安定を脅かす外部との交渉の場として「社会」がある。このような異者との交渉の場とは市場であり、ここにおいて複数の「共同体」の特殊性を捨象して共有しうる一般性として貨幣の専制が始まる。
ところで、特殊性-一般性と、単独性-普遍性という対とは異質なものであると柄谷はいう。特殊性においては、一般性における「猫」という類のなかで、灰色がかり、片目で、乾燥ナツメのにおいがして、甘ったれた声でしきりに鳴くというような特性の束によって「この猫」として同定されるものとしてルドンを記述する。しかし、単独性においてルドンは、そのような記述の束として特殊性をいわれるような「この猫」ではない。《「他ならぬこの猫」であり、どんな猫とも替えられないものである。それは、他の猫と特に違った何かをもっているからではない。ただ、それは私が愛した猫だからである1》。
つまり、単独性とは記述不可能性のことである。いくら言葉を尽くしても、それは記述の束としての特殊性にほかならない。言葉にするたび、愛した猫の他ならなさ(単独性)は、記述の束(一般性)として回収されてしまうのである。
さて、共通のシステムとしての「共同体」が、異なるシステムをもつ別の「共同体」とモノのやりとりするために、あいだに生じる「社会」において両者を媒介する貨幣が登場する。貨幣は、それが仲介する商品らの単独性にも特殊性にも頓着せず、ただ商品一般として価値を抽象化することで価値の体現者となるのだった2。
市場の全面化によって引き起こされる「共同体」の消失とは、「共同体」のオペレーション・システム自体が「社会」のそれによって書き換えられていくという事態に他ならない。「共同体」のオペレーション・システムも、「社会」のオペレーション・システムともどちらも特殊性ー一般性の対によって駆動する。つまり、個体を類的なものとして一般化することで交換可能なものとする仕組みであるという意味では共通している。それでも、そもそも自覚の上では「共同体」はひとつの「この共同体」ではなくたったひとつの「他ならぬこの共同体」であるという単独性を有していただろう。「共同体」内の人間にとって、その外にあるのは別の「共同体」ではなく、統御不可能な混沌でしかないからである。あらゆる「共同体」の差異がなくなり、ひとつの「社会」へと溶け出してもなお、「共同体」の意識はなくなりはしない。ほとんどすでにうちとよそとの差異はないにもかかわらず、人間の思考のオペレーション・システムはうちとよそを分けて考えたがるものだからだ。そこで、「社会」のなかで改めて「共同体」の建設が試みられる。うちとよそが無効化した後に、改めてうちとよそを区切る線を引く試みがナショナリズムである。
ナショナリズムの現場は、話し言葉である。ボッカチオの『デカメロン』、ダンテの『神曲』からルソーのドイツ語訳聖書まで、俗語表現=ヴァナキュラーな書き言葉の実験とは、ラテン語という共通の書き言葉に抵抗する音声中心主義の勃興である。このような音声中心主義は、この列島においても漢字という帝国の書き言葉に対する古今和歌集仮名序から明治期の漢字廃止論に至るまでの諸実践として連綿と続いている。グローバルに通用する書き言葉を、土着の話し言葉然としたものへとローカライズすること。ナショナルなものを開発し、内在することで、「社会」において特殊性を主張する「うち」を成立させる。
情報社会において、ラテン語や漢字に象徴される帝国のグローバルな書き言葉は、機械語というプログラム言語に置き換えられているという見立ても可能だろう。CPUが直接解釈できるこの書き言葉は、より人間の読解可能性が高い形で、ヴァナキュラーな話し言葉への接近として、複数の言語へと翻訳されていく。ラテン語がドイツ語という新奇な標準形に読み替えられ、漢字がかなに読み替えられていくように、機械語はC言語やらPythonやらJavaScriptやらにコンパイルされる。そして、近年ではいよいよ、ふだんづかいの自然言語で指示を出せば誰しもプログラムを組めるような環境まで整い始めている。情報環境における音声中心主義の勃興。それに僕らは立ち会っている。
プログラム可能な情報の束としての特殊性においてしか、個体の個性を記述することはできない。現在の類的存在とは、そのような情報の束である。情報化しえない余剰は「社会」の外部へとオミットされるが、しかしこの「社会」にもはや外部などない。そのような状況下で、あらためて単独性を確保するためにできることとは何か。いくらルドンについて言葉を尽くしても、写真にとって加工してアップロードしても、それはすべて一般性ー特殊性の対のなかで、「この猫」の特殊性を通じて結局は「猫」という一般性へと埋没していくほかはない。そうではなく、黙ってその背中を撫でること、膝の上に重みと体温を感じること、そのような何気ない日々において「他ならぬこの猫」であることを納得する。その瞬間において即時的に享楽する。そのようにしてしか単独性はありえない。猫の場合は話は通りやすい。喋らないし、読まないからね。では、人間はどうだろう。
