森脇透青「いま、何かに集中するために:クラフト試論1」を読んですぐに手配した李舜志『ベルナール・スティグレールの哲学 人新世の技術論』を昨日の夜の電車で始めた。柄谷の一般性-特殊性の対と異なるものとしてある単独性-普遍性の対を置く議論に対して、なんとなくわかるけれども、単独性から普遍性への回路ってどんななんだろうとやや曖昧だったのが、この本の中でべつの脈絡で用いられる教会の比喩を読んでいてなんとなくわかった気がした。教会で聖書を読んだり、賛美歌を歌うことは、共に立つ「われわれ」信者たちの共同性に内在しつつ、離れて立つ「私」という単独の個人として神との対峙する体験である。ここで、「われわれ」という共同性は、一般性ではなく、神への信という普遍性に属する。そしてこの普遍性は、ほかならぬこの「私」の信仰という単独性と相補関係にあるわけだ。信を「われわれ」の共同体へと外在化し、外在化された信を内在化することで「私」になる。これは一方向の作用ではなく、「私」の信が外在化されることで「われわれ」の側も変容する。外在化を通した内在化のポジティブな面が、信仰という単独性-普遍性の対の場面において具体的なものになる。
これに対し、資本主義の全面化というのは、あらゆる個人のニーズを充たすふりをして個人を会社員、男性、三十代、既婚、本好きなどの諸属性へと分割し、マーケティングの対象として還元していく事態である。つまり、資本主義体制においては個人はほかならぬこの「私」という単独性からだけでなく、それと相補関係にある「われわれ」という共同性からも疎外され、資本主義という一般性に内在する特殊性の記述の束へと切り詰められていく。技術という外在化されたものを内在化することで「私」を育んでいく単独性-普遍性の回路は失効し、ただ外在化された「みんな」だけが肥大化する。内在化の契機を失った「私」が特殊性へと瘦せ細る。特殊性における「私」は、記述の束の外部をもつことができない。記述に馴染まない単独性-普遍性の対の実践は、市場価値を持たない無駄として、怠惰の証として非難され、捨てられていく。どれだけ複雑なネットワークを過剰に接続させて唯一らしさを擬制したところで、そこにあるのはせいぜい高度に記述された「みんな」に対する特殊性としての「私」でしかない。特殊性としての「私」が「みんな」の一般性へと溶け出してしまうような社会に、教会で共にあるいはひとり静かに神と向き合うような「われわれ」と「私」の居場所は見出すのが難しい。「私」はすでに分割可能なものとしてあり、分割不可能な個人が失効しているからだ。
