早起きは前日が苦手で、当日はあんがいすんなりいくものだとわかってきた。前日は、丸一日が翌日の早起きのために体力を温存せねばというような形で手段化されてしまい、台無しになるという感覚が強い。そこまでびびっておいて起床時はあっさり起きる。だったら昨日も楽しめばよかったのに。
思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心にあって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもない corporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。
ところで、それは、もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宜長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではないし、また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』(講談社学術文庫) p.134
十代から二十代にかけて現代思想を好んで読み続け、就労を挟んで直面したのは、まさに学生時代は心躍らせた生成というものが、《構築のないところで(…)唱えることには大して意味はない》ものであるという挫折感だった。そもそも日本には会社しかなく、国家も社会もないとまで言えるかはともかく、《あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる》のはたしかだし、実はこれは洋の東西を問わずそうなのではないかというのは近年のイスラエルやアメリカの無軌道ぶりを見せつけられていると思うところだ。そもそも構築こそが見果てぬ夢で、人間なんてほっといたら生成しかないんじゃないか、まじかよ、もっとしっかりしててくれよ、そうじゃないとぼくがしっかりしなくちゃいけなくなるじゃないかという幻滅が、昨年からカントを読もうという思いが去来している原因なのだと思う。僕はポストモダンの愛好のためにも、モダニストにならねばならない。
新年度というものも早起きと同じだ。来るまでが不安で、渦中にいればあっけない。あらゆる変化は時間がかかり、時間をかけているうちに当人が慣れて順応してしまうから気がつきにくいものだが、いつのまにかだいぶ最悪な状況になっているというのはありえる。ぼんやり生きていてはいけない。でも、ぼんやりするのがだいぶ好き。シャキッとさせないで欲しい。シャキッとしなきゃと思うような状況は、もうすでにかなり最低。
