「柿内正午「随筆時評」(『随風03』所収)への私的応答」を読んだ。嬉しい。二万字くらいあるらしい。関口さんに《ひとりで20ページ書いてて前回同様笑いました(全体の約7分の1!)》といわれた「随筆時評」より長い。しかし、読んでみて思うのは、やはり一万字は超えないと読みでがないということだ。長さがなければ書けないことがあるというか、圧縮しようとすると流通可能な有徴の「私」——仲西は「レッテル可貼性」という造語で示している——として陳腐化するばかりで、この固有の体と歴史を持った〈私〉が見失われてしまうという危機感を共有しているように思える文章に出会えると嬉しい。そういう文章は長い。〈私〉をなるべく保ったまま短くコンパクトにまとめようとすると、本人以外誰も読めない文章になる。揶揄としての「ポエム」など、端的に駄文がほとんどで、それがなぜか読ませる形にまで昇華しているものが詩歌なのだろうから、ただの駄文を「ポエム」と名指すのはどこか妥当なようでもあり、というか僕には〈私〉の語法だけで語ろうとするようなものらの「ポエム」と詩歌の区別が正直あまりつかない。それはそれで苦手だ。共通の「私」を資源として、共用可能な足場を制作し、そのうえで〈私〉同士としての邂逅がありえる、そのような試行錯誤だけが僕にとって楽しく読める散文であるように思う。
日記やポッドキャストを片隅で黙々とミニマルに制作する「わけわかんないもの」として始め続けてきた者として、それらが「ブーム」になりお手軽な流通のための「わかりやすい」包装となってきてからの苛立ちや萎えはかなり大きく、仲西森奈さんの《なにも思わせない》《おもろがってほしさしかない》ものへの志向——《ちゃんとクソ映画を撮》る——には勝手に共鳴するところがあるというか、やっぱそっちのほうがいいよなあと思う。パキッとした境界を設定してその内外に安住する「私」の粗暴さへの苛立ちがずっとある。〈私〉はもっとぬるぬると希釈したり濃縮したり、かと思えば突拍子もない飛躍があるものだ。一方で、〈私〉はそもそも言語表現に馴染まない——「私」とは記述の束だからだ——ということに無自覚に、素朴にありのままの〈私〉を言語化できるという屈託のなさに対しても、おいおいマジかよ、という気持ちがあるということを前の段落で書いた。この日記はいつも千字、長くて二千字程度で、一万字もない。きょうは千字くらいだろう。日記は塊になってはじめて意味がある。僕は「わけわかんなさ」を面白くなさや大したことなさに賭けてやっているが、仲西さんはおもろさで勝負しているからすごいと思う。というか、僕もどこかでおもろさへ踏み出すべきだろう。そういう勇敢さをお裾分けしてもらった感もある。
