2026.05.18

週末に庭の除草作業をしたさい、裏手のドクダミを夢中で踏みにじるあいだに出窓の雨戸の角で右脇をガリッとやってしまう。血が滲みシャワーが滲みた。痣まで出来てきたようでとにかく体に傷があると注意が散漫になる、家のあちこちにポケットや袖をあちこちに引っ掛けたり、机の角に肩を擦り付けて裂傷を増やしたり散々である。夕方にようやくリングフィットをやって、『トピーカ・スクール』を読みながらうとうとし、夕食とお風呂のあとに『トピーカ・スクール』を読み終えた。とてもいい散文だったな、と感じ入ってしばらくぼんやりする。電車で、ベッドで、飛行機で、ソファで。あらゆる場所で読み継いでいけてよかった。人生の可読性を巡る作品だった。単一の目的にだけ最適化された話法の強力さと、その強力さによって圧倒されやすい弱い話法——解釈の枠組みの多様さを受け容れゆっくり丁寧に話すこと——の困難。入れ替えられた時系列がズレつつ重なりあう構成からしてそうだけれど、語のレベルでも押韻、引用、繋ぎ間違えなど、あらゆるズレを伴う反復が執拗に繰り返されることで現れてくるのは緊密さではなくむしろ空疎にさえ感じる余白の膨大さだ。情報の洪水を、無力感の増大(スプレッド/電話の向こうの「男たち」に対する母の戦術)としてではなく、あらゆる時空に偏在する断片として読み替えること(規格品による同一化/父の映画)。この小説はそのような実践であるのだと思った。私たちはありふれていて、どこにでもいるということが、誰かの声を拾うことを可能にしうる。この信念というのは、傲慢でも謙虚でもある「男たち」の姿勢の体現でもあるはずだった。中村拓哉の少女漫画論や湘南乃風論をみていると、中村の批評の重要性は、内在的マイルドヤンキー批判であるという点にあるのではと思えてくるのだけれど、このあたりの問題意識で読むこともできるだろう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。