昨日の続き。
僕は死を自我の突然で決定的な消失だと思い描いてきたけれど、加齢とともに自己のコントロールが効かなくなっていくことを自覚したいま、自我というのは段階的に手放していくものなのかもしれないと考え直し始めている。よく考えればこれはそこまでの転換でもなく、僕は死ぬこととボケることを同じくらい恐れていて、つまりは今ある自我がなくなるという意味では、肉体の停止は必要でない場合もあることはわかっていたはずだったが、それにしてもこんなに早くから劣化が始まるのだというのは予想外であったし少なからずショックを受けている。ただ悪くない面もあって、このくらいの時期からじわじわと自分で自分だと認識している自分がどんどん失われていくのだとすると、考えていたよりも消失の瞬間とはそこまで劇的でもない気もしてくる。とりあえず若くなさや、他人の若さを呪うようなことだけはしたくないな、と思う。この思いも遂げられるかわかったものではないが。
いまわりと先の予定がぽっかりと空いていて、というかこの一年半くらいはそもそも中止の可能性がちらついて予定が確定しないのだけど、とにかく今を生きることになる。それは常々すべての可能性を未来に繰り越す都市型生活の限界を指摘するとき自然体だとかスローライフだとかそういう言葉で祝福される事態なのだが、人は今を生きるとは常にいつでも死ぬ可能性があるということを意識せざるを得ないということでもあるのだとよくわかった。楽しみなものでも不安なものでも、中長期的な計画が充分にあると明日にでも死ぬかもしれないという可能性は潜在し意識することもない。滅入らずにいるにはその盲目もまた必要だ。
とここまでは内省というか、自分に向かった内向きの明文化であって、まだ他者への気遣いへと開かれていかない。けれどもここで焦って他者へ向かおうとしても大していいことはないだろう。まずは空疎化している内面をある程度充実したものにしない限り、他者に贈るにも元手がなにもないということになる。歳をとると他者に受け渡していけるものもまた積み重なっていくというのがこれまでの僕の感覚だったけれど、むしろどんどん自らは虚しくなっていくので、渡せるものもなくなっていくというのが今の実感だというのが今まさにどうにかしなければならない事態であり、それは他者にやたらに開いていくことでは解決しない。まずはそもそも自分はこれまでもずっと空疎ではなかったか、であるとか、あらゆるものごとの通過点としてよくて媒介としてこの個体はあるのみであり、むしろ我の強化によってお通じが悪くなっていたのではないか、であるとか、ひたすらにこの個を点検することから始める必要がある。そしてそれはおそらく個の虚しさを受け止めるという方向で今は落ち着きそうだということだった。もしかしたら僕はずっと似たようなことを書いてきたかもしれない。しかしそれはあくまで観念的な操作であり、今のように鮮烈な実感の伴った言葉ではなかったのではないか、当時はもちろん真剣だったが、真剣でありさえすれば言葉に体重が乗るというものでもない。
ある程度この個が充実しているという錯覚はあったほうがいいが、充実は個にかまけていては達成されない。むしろ他者への気遣いや交歓を通じてしか充実は実感できないのだけれど、個が虚しく思えるとき、他者との交流もまたありえないような気分になりがちなのが問題で、こんな空疎な自分に他者と分かち合えるものがあるだろうかと思うのだけど、もともと誰もが空疎なのだから、とにかく言葉や行いを投げかけてみることからしかなにも生起しようがない。ここまで書ければたぶん上出来で、とはいえそれで自分の空疎さを忘れていいことにはならないというか忘れられない。自分など大してありはしないのだという楽観とほとんど同じ諦念でもって、なるべく多くの人に優しくあれればいいな、と祈るような気持ちになる。心は虚しいのだから入れ替えても仕方がない。この個体として表出する具体的な行為だけが、自己の価値判断の根拠になりうる。最高にいい人間でいたいが、万人に対してそうであることは無理だろう。せめて好きな人に対しては、いい人間であろうとし続けていたい。
口先だけではいけないが、口先からしか始められないこともある。少なくとも僕の場合は。言説は行為に先立つどころか、言説もまた一つの行為であるわけだから。
