すっかり湿気っていたシーツと布団カバーを洗う。昨日の方が天気は悪くじっさい体の大部分は今日の方が元気なようなのだけど頭がどうもぼんやりとするというか、凪いでいる。どうしても動かない感じになって、本を読んでも感受できるものがそこまでないような気持ちになって悲しい。『長い一日』のコンビニのくだり、床屋の話、などに少しだけ明るくなるけれど、それでなにかを思い出したり、考え出したりしようとするとそれらは予感にとどまってこちらまで来てはくれない。なんだろう、ふだんは頭蓋骨の中でギュンギュンに回転して稼働している部分が、スンッと静かになってしまった感じがあって、今日は特になにも考えられないし、普段から何かを考えていたことなどないのかもしれない。ドゥルーズが『プルーストとシーニュ』で人は自発的にというか内発的にものを考えることなどしない、なにか異様な出来事や状況に出くわした時、考えざるを得ないような事態になって初めて思考は始まるのだと書いているのを僕はもうずいぶんと都合よく解釈しては使用してきたが、家にばかりいて必要がなければ外に出ない生活は、考えが否応なく始まってしまう事故的な遭遇にたしかに乏しい。すべての行先が自分で予約したりしたものだけで、意志の介在しないものなどないかのように思えてくる。人との会話も視覚と聴覚にほとんど任せて言葉ばかりをやり取りする。触覚や嗅覚の衰えというか、むしろ家にないものに対する過敏さが育っているように感じる。外に出て、自分でも予想も期待もしていないようなものを前にこれまでとは別のことを考え出すようになるということが、しかし、家から毎日出かけていた頃には本当にあったのだろうか。都市生活とはほとんどの要素を人為的な構築物に占めてもらうような生活のことであって、それは家の中にずっといることで生じる閉塞感や倦怠感と似たようなものをもたらしてはいなかったか。しかしやっぱりそれは大きさが全然違うのであって、家の中だけではやはり倦むのだ。滝口悠生の文章を読んでいて、そろそろ僕は習慣を変えてみるなり、自分と周囲との関係の持ち方をなにか大きく変えて見せた方がいいのかもしれないな、と思う。自己像というのも刷新というよりは換気が必要で、定期的に外の風を取り込む必要がある。もうずいぶん似たような自分のままいると思う。どうせ自分でなくなることはないのだから、それこそ引っ越しのような、大きな環境の変化をわざわざ招き入れるような面倒を引き受けるにはいいタイミングなのだと思う。とくに移る予定もないのだが。引っ越しや転職に匹敵し、かつお手軽な、日々の動作や導線の変調をもたらすなにかがあったりしないだろうか。そういう気分の時僕は新しいゲームを遊びたい気持ちになってどんどん買ってみては結局そんなに遊ばず、やはり今はシュミュレートではなくじっさいにこの生活をエンハンスしたいのだという気持ちになるのですが、奥さんはいかがですか? とソファの隣にいる奥さんを見やると、僕が今日一日とくにぱっとしなかったな、という顔をしていたからなのか、日記に何書けばいいかわかんない、きょうなんか面白いことなかった? と雑な問いかけをしたからなのか、お尻を前の方にすべらせて肩甲骨のあたりを背もたれにぐっと押し付けると両足の裏を天井に向けてガパッとVの字に開いてみせた。そんな奥さんを見てふふふと和やかな気持ちになっていたら、なんで微笑んでるの、とへらへらされたので、なんか景気づけに謎の開脚を見せてくれたから、と応える。それから奥さんは一人で体操を始めた。
