そして夫もその街で暮らしはじめて、オオゼキで買い物をして、オオゼキを好きになった。その魅力はなにか、と問われたとき、夫はあまりに多くの事柄がわきあがってきて、思わず胸がいっぱいになり、うまく話し出せなくなってしまう。説明する前に、家から自転車に乗って、オオゼキに行く数分の道のりが思い出される。そして駐輪場に自転車を停めて店内に入る。その瞬間の店内の活気と空間の広がりのなかにこれから自分がする買い物を、その心躍る過程を想像しはじめてしまう。
滝口悠生『長い一日』(講談社) p.192
オオゼキのこのくだりで僕は思わず胸がいっぱいになり、奥さんに見て! とこの章をまるまる一緒に読んでもらった。奥さんはくすくすと笑いながら付き合ってくれる。奥さんは僕よりも読むのが速いから、僕はすこし急ぐようにページを捲る準備をすると、やはり奥さんは僕がページの左端に届く前から捲ってもよいという合図の頷きを始めている。台所との関係性の話も、習慣化された環境と身体との協働も、すべてこのオオゼキの愛おしさに収斂していくような感覚があって、僕はもうとにかく、スーパーに行きたい! と思う。
それで厳しい仕事が一段落したところで、奥さんもちょうどキリが良さそうだったので、散歩を提案して受理された。もちろん行き先は駅前のサミットで、ハーゲンダッツを買いに行くのだ。僕はもう駅前のサミットに滝口悠生のオオゼキをなかば重ね合わせるようにして考え始めていて、奥さんと外に出るのも三日ぶりとかだろうか、嬉しくて奥さんは僕を犬のようだと言った。それで僕は滝口悠生の犬のお尻についてばかり書いている短編を思い出す。奥さんはいつも僕の左側にいるのを好むので、ラッタウット・ラープチャルーンサップみたいな名前が三人分くらい連名で記された表札が、奥さんの頭よりも高い場所に掲げられていることに気がついて、これはこれまでなかったのではなく、ふだんは奥さんの頭頂部を眺めるようにして歩くから気がつかなかっただけかもしれないと思ったのは帰り道のことだった。買い物袋を忘れたことに気がついたのは家を出てすぐだったけれど、面倒なのでパーカーのポケットとかフードに入れればいいとしてそのまま歩いて行った。
サミットは大きな通りに面した入口は一つで、入ると右手にエスカレーターがあり登るとレストランや衣服類なんかが売っている。ここ一階では目の前にはまず青果コーナーがあり、ぐるりと一周するようならばここから外周に魚、肉、乳製品、冷凍もの、パン、惣菜とセオリー通りの配列がなされていて、その内側には調味料や乾き物、清涼飲料水や菓子類などと一緒にかんたんな衛生用品なんかがいろいろと並べてある感じなのだけど、きょうはハーゲンダッツだけが目当てなので入って反時計回りに外周をなぞるというコースは取らず、そのままレジの並ぶ直線に沿って一気にパンや惣菜のコーナーをも越えその奥の冷凍庫にまっしぐらだ。二人で味の検討をし、ラムレーズンとキャラメルとクッキー&クリームの三つで迷っていたのは二人ともであることが知れ、前の二種類が選ばれることとなった。セルフレジで会計を済ますと奥さんは僕のパーカーの左ポケットにぞんざいにアイスを突っ込む。下手な万引きみたい、と僕は思う。店外に出ると奥さんはいたずら半分ポケットのアイスを取り出してパーカーのフードの中に放り込んだ。ポケットだとお腹が冷えちゃうからね。歩いているうちに背中に熱がこもって汗ばむのを感じる。案の定背中の熱でハーゲンダッツはけっこう溶けた。なので冷凍庫にしばらく冷やして一仕事することにして、二〇分ほど冷やしてからまたテーブルに集まってハーゲンダッツを食べた。まだまだ柔くて、でもちょうどいい食べごろとも言えて、二人でだいたい半分ずつを適当なタイミングで交換しながら食べていく。美味しいねえと言い合う。僕はキャラメルから始めて、ラムレーズンで締めた。
仕事の後は『試行錯誤に漂う』をいくつか読んで、ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』をざっと眺めて思い出そうとして、それからベケットの『プルースト』をやっぱりさっぱり分からんがなんか面白いことが書いてある気がする、と思いながら読んでいた。奥さんは歯医者に行った。
僕はあしたは髪を切りに行く。窓目くんの影響であることは間違いがない。スーパーといい散髪といい、簡単に読んでいるものに素直に影響される僕を見て奥さんはそういうの久しぶりだね、と言った。たしかにそうかもしれない。もっといろんなものに簡単に流されるように暮らしていきたい。
