ワディウェル『現代思想からの動物論』、ゆっくりと読み進めてきて、ペットとの関係を論じた第六章で読解されるハラウェイの論が面白い。人間同士だけでなく人外との相互依存や共形成の関係を捉えるアクターのネットワーク理論の担い手でもあるらしいハラウェイの動物論は、自由の反対に必要を対置する態度のナイーヴさを批判し、自由は絶対的でなく関係的なものであると定義する。他者との道具的関係──他者を特定の目的の達成に向けた手段として扱うこと──は現実としてある。ただし、それはある程度までは「お互い様」だ。誰もが相互に道具的関係を結んでいるし、生活に必要や束縛はつねにある。生きていればそれはある。
道具的関係を全否定するのではなく、その程度を問うこと。必要からの解放を自由と呼ぶのではなく、必要や束縛の存在を認めつつも「縛りでありながら可能性を広げ、苛立たしくも喜ばしい経験」の可能性を求めること。
ハラウェイの態度にある程度の理解を示しつつも、ワディウェルは人間と動物間の圧倒的な非均衡を指摘する。たしかに道具性自体が悪というわけではないが、しかしパワーバランスの極端な偏りは道具性を暴力へと転じる。そこにあるのは必要と対立させた自由ではないかもしれない。非均衡に基づいた一方的な他者の道具的利用が実現する自由とは、「他者の不自由を経験するという意味での自由」だ。動物の不自由の享楽。それが人間の自由の正体であり、他者の生殺与奪の権を独占する欺瞞に満ちた自由なのだとワディウェルは喝破する。
ざっくりそのようなことが書かれているようで、僕は特に特に必要や束縛からの完全な自由を求めないハラウェイの論理展開を面白がった。ハラウェイは面白そう。いつか下北沢のB&B で『猿と女とサイボーグ』を買った。次はこれかもしれない。人間の加害性を潔癖に批判するのではなく、どうしようもなくあってしまうものとして、その加害の責任を考えるというスタンスは、近年の東浩紀の仕事ともどこかで共鳴するような予感があるがどうだろう。
僕がここで考えるのは自身の加齢や「おじさん」のことだ。「若くないんだから」などといらん規範を押し付けようとしてくるエイジズムには抗いつつ、とはいえ長じてきたことによって付与されてしまった権力を自覚し注意深く振る舞う。三〇代になってよく考える。「おじさん」批判は、気をつけないと老いていくこと自体の否定に直結してしまう。批判すべきは、男性だけが加齢と共にますます権力を強めていく社会構造だったり、その構造に無自覚なまま気ままに振る舞って他者の尊厳を毀損する個人個人の甘ったれた鈍感さであるはずだ。よく批判されている「おじさん」というのが家父長制の擬人化であることを読み落としてしまうと変なことになりがち。とはいえ、自分ではなんの特権もないつもりでいても、実際は誰かにとって暴力的なほど権力の不均衡がある可能性が常にある、ということを、多くの男性は見落としがちでもある。そうやって見落として気がつかないままでいられてしまうことこそ特権だ。まずはその可能性に注意深くありたい。権力というのは何も特別なものでなく人間が二人以上いれば発生するもの、みたいなことをフーコーが言ってなかったっけ。とにかく自分が否応なく「おじさん」になっていくなかで、自身の「おじさん」を引き受けつつ責任を果たしていく、そのあり方を考えるというのは自分としてもアクチュアルな問いだった。
話は変わるのだが来週からはハロウィンらしい。去年からFGO始めて、ネロちゃまに「推し」という概念を教えられた身からすると、ワダアルコ先生の絵がたくさん見られるチェイテ・ハロウィン・トリロジーがとても楽しみ。弊デアにネロちゃまのお友達がたくさん配布されるのも嬉しい。
