2021.10.14(2-p.166)

三柴さんに教えてもらった吉田悠軌『一生忘れない怖い話の語り方』を読む。実話怪談。これまた未知の世界だ。軽い造りと文体に騙されそうになるが相当ディープな世界を丁寧に腑分けするたいへん理知的な本で、興奮して読む。実話怪談というのは創作ではないので、取材から始まる、という当然のようなことがまず面白い。そうか、書く、の前に聴くがあるのだな。民俗学っぽさというのもまずここで、実話怪談においては構成力やパフォーマンス力に先立っていかにいい話を採集できるかというところに大部分がかかっている。ここに技芸である前に探求としての営みの質感がある。他人の話に耳を傾け、その人の主観をまるごと受容した上で、編集を施し、自らを通して語り直す。実話怪談の語り手をどう捉えるかを考えることは、演じるという行為の内実、他者を書くことの倫理、フィクションを一旦真に受けるようにしてそのまま受け取る態度、など様々な話に広げていけそう。実話怪談、すげえ面白い世界なのでは。リアリティ成立の要件、人称の問題、他者の捉え方、文体、オリジナリティを有する個人という自我の相対化、作意と無作為のバランス……、創作における基本的な問いが粒度も揃えずゴロッと活きのいいままに語りの実践の場に持ちこまれてる感じ。新鮮な問いと実践がそこにはある。何より僕はお芝居を作るとき常々劇的空間への移行の問題に関心があって、いかに普段の駄話の延長に、わかりやすい非日常ではなく、特日常というか亜日常というか、とにかく隣接する別の可能世界のようなものの気配を現出させられるか、みたいなことが中心となる問いだった。だからギター一本で空気をいっぺんできる音楽が羨ましかったが、怪談の方法論は僕がお芝居でやりたかったこととかなり近しいところにあるんじゃないか、という予感がある。いいな、怪談。怪談の手法で、お芝居を作ってみたいな、と久しぶりに作劇の方へ関心が向いた。

読みながら合間にYouTubeで城谷歩や上間月貴の話を聴いてみたり、『怪奇蒐集者』の吉田悠軌のやつと朱雀門出のやつをちょっと観てみたり──こちらは効果音がつけられてるのが余計に感じた──して、読了後は「怪談のシーハナ聞かせてよ。」のAmazon primeで観られる回を観たりした。特に朱雀門出はこれも三柴さんに教えてもらった『脳釘怪談』を併読すると、しゃべりと文章の語りの違いがよくわかって面白い。「カープテ」と「おいしすぎる粥」の両方を聴いて読んで、飄々とした世間話のようなノリでしゃべっている姿もいいし、しかし文章で読む方が、別の環世界へと感覚をズラされる感じは大きいかもしれない。日記とポッドキャストで文字と声の違いを日々感じているぶん、両方やる、という怪談のプレイヤーの実践から汲み取れそうなものへの期待も多様で、どんどん掘っていきたくなっている。知りたいことがどんどん増えるなあ!

そもそもホラーって何? テラーとは違うの? スリラーとかサスペンスは? なんでこのなかでテラーだけジャンルになれないの? かわいそうじゃない? あ、フィアーもじゃん。なんで? みたいな話を奥さんとして、二人でよくわからなくなった。怖い話と怪談と実話怪談と怪談実話と都市伝説とオカルトの区別はつくようになった。同じように、こうした大衆的で俗っぽいが故になんとなくの区別はつくがいざ腑分けしようとするとよくわからなくなってくる若いジャンルについて、きちんと筋の通った論理で語ってくれる本がもっとあったらいいのに。いや、もうあるのだろう。僕がまだ見つけていられないだけで。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。