2021.11.05(2-p.166)

日記だとあんまり意識しなかったけど、一つのテーマでひとりで一冊作って、自分ひとりで期待を煽って売っていこうとするというのは、相当な図太さや胆力が必要だな。めっちゃしんどい。ようやく制作者のスタートラインに立った感じがするし、これはひとりじゃ無理だ。編集者の必要がわかる。誰か助けて。

今回のZINE 『会社員の哲学』を作りながら素人とは何か、自身の素人性を打ち出しすぎるのはたとえば現政権にみられるような醜悪さに加担することになりかねないのではないか、みたいなことを悩み続けていまだ悩んでいる。素人とは「専門性のない人」のことだが、それは「専門性を軽んじる人」ではない、素人なりの真摯さというのがありうるのだという態度をたとえば僕は「町でいちばんの」という形容に託しているのだけれど、たぶんあんまり伝わらない。

『プルーストを読む生活』が自分の想定よりもうんと広がっていく過程で、すでに自身の素人の自称に違和感というか躊躇いは生まれていて、僕は読む喜びを「そんだけ!」と言い切るためには、わりとしっかり読むことに対する倫理というか、ある程度の技術の習得を前提としているところがあって、自分の読みの浅さや未熟さに忸怩たるものを持っているからこそ、それでも本を読むのは楽しい、という態度を表明することに何より自分が励まされる。素人の肯定は、馬鹿であることや未熟であることへの居直りの肯定ではない。文字という道具と真摯に格闘し、自身の至らなさに心底嫌気がさしながら、それでも文字への愛着を捨てきれない、明日はもっとマシな読者であれるはず、そういう態度でありたかった。素人は探求の放棄ではなく、その果てしのなさだ。

読み書くことの倫理というのは、教え諭されて身につくものでもなく、じっさいに最大限真摯に手を動かしてみる経験がないことにはどうにもならないものなのだという実感がある。しょぼい実作者として自身のしょぼさを思い知ること、それこそが素人の制作の意義だと信じている。だからこそしょぼい作品に対してはしっかり「しょぼいよ!」と指摘する厳しい読み手こそ重要で、素人は精一杯がんばってみて、読み手はそれを容赦なく評価する、というのが僕の理想とする制作の環境なのだと思う。ある程度簡便に誰でも制作者になれる現状、まっとうに真摯な「読み手」こそ求められる。誰でも何でも作ったら作れちゃうから、今更クリエーターなんか大したことない。むしろ制作者への共感を括弧に入れて、作品自体の練度や真摯さをちゃんと評価する「読み手」の希少性をどう守っていけるかが大切な気がしている。

僕は僕の作ったものがもっとしっかり厳しくジャッジされた方が嬉しい。

今日はいちにち原稿の準備。昼前に漢方の補充に寄って、そこから喫茶店に籠もって根を詰めた。ケーキセットのショートケーキのほか、そういえば何も食べていなかった。夕飯前には視界が霞むほど限界で、慌ててご飯を三杯食べた。すると今度は昨日の肉体疲労が表面化する。なんにせよくたびれた。

文フリを待たずして新刊の取扱について問い合わせくださる書店もあり、ありがたい。期待には応えたい。そう思えば思うほど、自分のしょぼさと向き合わざるをえなくなる。まったく、これはあれだ。「生きてる」って、気がするぜぇ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。