ルトガー・ブレグマン読み終え、となると山岸俊男だった。『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』は高校生のときだっただろうか、ほぼ日での特集記事きっかけで読んでとても面白かった。やはり小学生から高校生にかけて、あの頃のほぼ日を浴びたことは人格形成に大きな影響を与えている。保坂和志もほぼ日だった。それで『信頼の構造』。『働くことの人類学』の読書会で教えてもらった本で、もともとは『会社員の哲学』の資料にしようと思っていたのだけど間に合わず。今日は四分の一くらい。やはり僕は合理的な楽観、理性的な人懐っこさみたいなものが好きというか、そういうものに与したい。
『プルーストを読む生活』の感想でいくつか、垣間見える著者の孤独癖への共感を示したからこそあとで覗いたTwitterでのわいわいやってる感じに失望した、みたいなことが書かれていたことがあって、そういうのをみるたび友達をうまく作れないことを他人に責任転嫁していたかつての自分のようだな、と懐かしくなったりする。連帯も孤立も恐れるものでもないし、独りだから偉いわけでも友達が多ければいいというものでもない。どちらも自分にとって塩梅よくあればいいというだけの話で、僕はもうすこし友達がいた方がいいな、とこの歳になって思ったからTwitterでは誰彼構わず腹を見せる犬のように振る舞う。たしかにそれはみっともない振る舞いだろう。それに友人関係というのはオキシトシンの持つ功罪──親密と排外──を強化する。僕が「身内」を増やせば増やすだけ、そこに疎外感を感じる「外部」も増える。
僕はいまでも友達が上手く作れる気はしていないし、なんなら「友達はほとんどいません」と言ってのけられる。けれどもそうすることで微妙な気持ちになりそうな人の顔を想像できるようにもなった。大人になったのかもしれない。だったら「みんな友達です」と軽薄に言えちゃう方がいいような気がしている。これは個人的にはかなり大きな変化で、この二、三年、だから自分でZINEを作り始めてからの変化だった。制作物を介しての人間関係は僕は薄く広くたくさんあったほうが嬉しい。みんな友達。
指輪がゆるくて薬指から人差し指に移し替える。