今日から「MUSHROOM AT THE END OF THE WORLD」。マッシュルーム・アット・ザ・エンド・オブ・ザ・ワールド。格好いい。バンドを結成することがあったらこの名前をつけよう。もう存在するかもしれない。邦題は『マツタケ』。
経済学を生態学に、また生態学を経済学に還元することを拒みたい。とはいえ、経済と環境には、ひとつの関係性が存在している。このことは重要なので、すなおに紹介しておくべきであろう。人類による富の蓄積の歴史は、人間も人間でないものも、すべてを投資すべき資源としたことにもとめることができる。この歴史は、投資家たちを魅了し、人間と物の両方を疎外しつくしてしまった。疎外とは、つまり、生活のなかで生じる絡まりあいなどまるで気にしないかのように、独立していられることである。疎外を通じて、人間と物は動産化される。それらは距離に抗う移動手段によって、みずからの生活世界から隔離されてしまい、どこかの生活世界の資産と交換されてしまう。このことは、食べることと、食べられることのように、単にほかの物を生活世界の一部として利用することとは異なっている。たとえば、食うか食われるかの関係の場合、マルチスピーシーズ「複数種」(multispecies)が生活する空間は、その場にとどまったままである。疎外は生きる場での絡まりあいを必要としない。疎外が目指すのは、独立したひとつの資産だけが考慮されるように景観を変えていくことである。それ以外はすべて、雑草かゴミとみなされてしまう。その場における絡まりあいにくわわることは、非能率的であるように思われるし、おそらくは時代遅れなものなのであろう。したがって、単一の資産がもはや生産されないともなると、その場は見捨てられてしまう。木は伐り倒され、石油は枯渇してしまい、もはやプランテーションの土壌は作物を養えないようになる。富の模索がどこかで再開されていく。このように疎外をもとめて単純化していけば、瓦解が生みだされていく。それは、ひとつの資産を生みだすために空間を放棄していくことなのである。
アナ・チン『マツタケ』赤嶺淳訳(みすず書房) p.9-10
生活のなかで生じる絡まりあいなどまるで気にしないかのように、独立していられること。マルクスの「疎外」からさらに意味を拡張していくこの「疎外」の用法の方がしっくりくる。それに李珍景にとってはこれこそがマルクスの「疎外」だった。マツタケって、松の茸なんだ、と当然のことに今更気がつく。
週末には増刷分が届きそうなので、その告知のためのネットプリント第二弾を書き始める。無数の柿内による雑談。こういうのだったら無限に書ける、と思っていたけれど、案外早めに限界は見えてきた気もする。簡単な書き方はすぐに飽きる。『会社員の哲学』は届いたらすぐに全量旅立ちそうで、えいやッとさらなる増刷をかける。薄い本だとこういうとき決断が気楽でいい。入稿作業中に奥さんに話しかけられてパニックになる。正気に戻るまでしばらくかかった。
MステにROTH BART BARON が出るらしいのでテレビを点ける。過去映像ばかりでつまらない。スタジオもスカスカで、そうか、パンデミック以来こういう感じなのかな、と寂しい。階段を降りてくるわけじゃないのか、と思う。Mステに出るというのはあの階段を降りてくるということだ。出番はまだのようだけれど、もういいかな、JOJO にしようかな、と思う。テレビ、まったく見ないのだけど、たまに見るともう二度と見ないのではないかと思う。それでもTwitterの出来事のだいたいはテレビで起きているのだなということもわかって面白い。結局は教室で「あれ見た?」とわいわいしているのとあんまり変わっていないのだ。
