今日は片道二時間弱かけて大船へ。車中では『マツタケ』。電車ではたっぷり読める。そうだった。僕にとって読書とは電車なのだ。さいきんはこれがなかったんだな、と噛み締めながら、ずいぶん時間をかけて読んでいた『マツタケ』の最後の三分の一くらいを、往復の電車で読み終えることになる。なんだかんだで読み終わるカタルシスは楽しい。読みながら、地震によって撹乱された本棚のことを考えていた。地震で倒壊して以来、とりあえずで本を収めて整理ができないでいるから、自分の本棚なのにどこに何がああるか把握していない。たまたま、手に取ったものから収めただけだから、配列にはなんの意図もないはずなのに、本は隣り合うとそれだけで何かしらの関係を幻視させるものだ。
今日も楽しく過ごせました。
大船について、まずは昼食。商店街の中のカフェでカレーを食べていると背後のお婆さんたちがそう言い合いながら席を立って行った。なんだかとてもいいな。互助会じゃん、と思う。
シエスタ明けのポルべニールブックストアへ。金野さんにご挨拶して、納品。テレコになってしまっていた前回の納品を今回の納品で挽回する形。結果きれいになってよかった。おしゃべりしているとお客様があって、こういう時に会話を続けていいものか、嫌な内輪感というか閉じた雰囲気が出ていないか気になる。ひとまず店内を回遊する時間にする。このお店の棚の前を行き来していると、普段は抽象的で頭でっかちな本ばかり好む僕ですら、すぐに具体的な行動に移りたくなりそうな本を手に取ることになる。よく読み、よく手を動かそう。ささやかでいい。「未来」は自分の手で作るもの。そういう爽やかな気分になる。それは金野さんとのおしゃべりでも出てきたけれど「こうしなくちゃ」であるとか「いますぐに」であるとかそういうこちらを焦らせて判断を迫るような煽り方をしてくる本がないからこその風通しなのだと思う。新刊台から壁沿いに旅の本から窓のほうへと巡って行って、フェア棚の向こうの絵本やデザインや科学を経て、レジ前の文芸、人文ときて仕事の棚に来るようにしてみる。ふだんなら手に取らないこの棚が光って見える。働くことを、前向きに捉えてみたいような気持ちになってくる。そこで今回は面陳されていた『月3万円ビジネス』という本を、月3万円稼ぎたいな、と思いながら素直に手に取り、その横の実践編みたいなやつも抜き出す。それから新刊台から荒木優太のプラグマティズム。ここまでは具体的な行動に向けての本だ。そこでやっぱり実践には人文知が伴っていないとな、と思い、ずっと寝かせてあった『ケアの倫理とエンパワメント』をとうとう買うことに決める。ここまで書いて気がついたが、プラグマティズムの時点で人文だった。そうこうしているあいだに金野さんは早速持ってきたZINEを新刊台に出してくださる。お会計の際にまた話し込んでいると入ってこられた方が、『会社員の哲学』を手に取ってパラパラめくっていて、自分の本が本屋で遭遇される場を初めて見たかもしれない。どきどきした。色々と話せて嬉しかった。いつか青木さんと僕とのイベントをここでもやらせてくださいよ、とさりげなく図々しいことも言いながら、出る。
祖父母の家が近くなのだ。思い立って電話をすると在宅とのことなのですこし顔を出すことに。二人とも嬉しそうにしてくれてよかった。祖父は摘出したばかりの胆嚢を見せてくれた。わあ。手土産に大船駅の催事で買ったどら焼きをぱくつきながら、おしゃべり。お互いすぐに相手に飽きて、おのおの勝手なことをしだすからいい。祖母はずっとテレビと喋っていて、テレビは友達なんだなあと思う。祖父はパソコンと格闘していてLINEを使いたいらしい。設定を少し手伝う。夕食は回転寿司に連れてってもらう。
帰りは『マツタケ』からの『月3万円ビジネス』。スケーラブルという幻想。それは規模によって見える景色はちがうという事実への盲目だ。規模の大小に左右されない普遍的な規格というものはない。だからこそ、市場の周縁での、ニッチな領域での小さな実践が個人の規模でのサバイブや資本主義というシステムの相対化に有効だったりする。それは完全な市場の拒絶ではなく、市場からのほどよい無視の獲得だ。
帰り道に奥さんからSlack で連絡がある。ネロちゃまビーストだとう!?