2022.01.26

アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン』を読み始める。引用しようとしたら切れ目なく延々と引き写したくなって、結局やめる。そういう本になりそうだった。自分に響いた本ほど引き写さないで済ませてしまうことが少なくない。思考という自由の領域に自閉することで、個人は苛烈な社会構造から解放されうるが、それは具体的な関係を捨象したかりそめの自由であり、ひとたび人間関係が始まれば消失してしまう。それでも個人の実践の上では、社会や歴史に盲目なまま、個人の思惟を肥大化させていくような態度を選び取り続けることもできなくはない。自分を規定する歴史的文脈を切断し、否定し、読み替えようとする試み。それは歴史修正主義や陰謀論と紙一重の心性だ。それはいっとき機能するかもしれない。しかし、歴史は必ず個人に追いつき、とらえていくだろう。そういうようなことが書かれていくようだった。

同時に『生きづらい明治社会』も始める。著者の名前を知らないものを手に取る時、すこしだけ緊張する。特に歴史の本は。ナショナリズムや家父長制への屈託のない肯定が素地にある人だったらいやだな、と。しかし、べつにそうした主義主張が研究全体を塗りつぶすということがありうるのかどうか、それはまた別の話だ。どんな人間でもいいものを書きうる、と僕は思う。作者の置かれたコンテクストから作品だけを切り出して読むというのはたぶんどんどん難しくなっていくのだろうけれど、それでも僕はなるべく作品だけを見たいとも思ってしまう。個々人の人格や人間関係だけがものをいう社会というのは怖い。ほんの少しの瑕疵でもあれば購入を控える、という消費者の論理が、品質だけにとどまらず、企業や個人の道徳のようなものにまで拡張されていく。それは、結局のところ息苦しさを強めるだけなのではないか。人間性は最悪だがいい仕事をする、という評価の余地が、あってもいいはずなのだ。というか、個人よりも作品のほうが大きいのだから、個人の資質だけに作品を還元する態度には馴染めない。個人に対する罰と、個人のなす仕事への制裁が分けて考えられないというのは、あらゆるものごとが資本の論理に包摂され尽くしていることの表れのようにも感じられる。それはともかく

私がこの本のなかでこれから述べることは、不安のなかを生きた明治時代の人たちは、ある種の「わな」にはまってしまったということです。人は不安だとついついやたらとがんばってしまったりします。みんなが不安だとみんながやたらとがんばりだすので、取り残されるんじゃないかと不安になり、ますますがんばってしまったりします。これは、実は「わな」です。なぜなら、世の中は努力すればかならず報われるようにはできていないからです。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)

まえがきの態度に信頼できるものがある。岩波ジュニア新書はとってもいい。知らないで済ませていたことを知っていくとっかかりは、中学生とか高校生くらいの気持ちで、そういう層に向けて書かれた本を読むのがいちばんだと思っている。安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』が読みたい。その次の読書に繋がるから入門書はいいものだ。

書いてあることをリテラルに受け止める。読み手としてはまずそこからしか始められない。SNS だったり、サブテキストが膨大にあり得てしまうというのは、書き手にも読み手にもあまりいいことではない。なんだかありきたりなことをわざわざ書いてしまっているが、ありきたりなのが日記だし、ありきたりでなさを求められても困るし、べつに求められて日記を書いているわけでもない。ここまで書いていて薄々わかっていたことだけれど、今日の僕は体調がだいぶ悪い。また寒くなってきちゃった。ぐちぐち。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。