(…)苦痛は、人生が人間のわきを通りすぎて行ってしまうわけではないことの保証でありうる。「苦痛を味わうというのは、生きるということでもあります」。でも苦痛を愛するようになってはいけない、じっさいに起こったことと苦痛を混同してはいけない、「自分の苦痛を愛してはいけません」。それがいつまでも居すわる感情となって、それにしがみついてしまってはいけない。(…)
アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン』大島かおり訳(みすず書房) p.113
これを見ても明らかなように、人生が教えうるもの、ばらばらな記憶を組み立てなおす絶望的な積み木遊びの果てに解答として残ったものは、いかにもお粗末な平凡事ではある。相互の関連を失った記憶の断片が幽鬼のように乱舞する暗い洞窟を、理性の光と伝達の意志をもって照らしてみれば、なんのことはない、混沌状態に一種のまとまりを与えていたおそろしい謎めいた不可解さはたちまち崩れさって、残るのはありきたりの処世の知恵だけなのだ。こんなお粗末さからの救いは、やはり他者との連帯にしかありえない──特定の理由から、ほかならぬこういう陳腐さを生来知らずにいた者、「恥ずべき生まれ」によってまさしくこういう苦い陳腐な経験をすべく定められている者との、連帯である。
同書 p.114
「彼女はたんに、おなじような運命にすでに苦しんでいる人を探しもとめたのではない。むしろ、自分が苦杯を呑みほして最後の最後まで追いかけたことを、また誰かが繰りかえすのは無意味に思えたのだ。彼女は自分を世界とその歴史のなかに組み込みたかった、そこでは反復が起こらないようにしたかった。(…)
同書 p.115
(…)彼女があのつまらぬ解答を超えてなにか語るに値するものを手にしたとすれば、それはゲーテのおかげだった。さもなければ彼女の語ることは、ただの断片的な処世の知恵に終わっていただろう。彼がいなかったなら、自分の人生を外からばかり見て、おどろおどろしいその輪郭にしか目がいかなかっただろう。自分の人生を、自分が語りかけるべき世界と結びつけることができなかっただろう。
同書 p.118
なんだかすごくて、どんどん引き写している。アーレントはラーエル・ファルンハーゲン本人であればこう感じこう書いただろうとというふうに書いたという。それでもそこには書き手が、対象に託しているものが読み取れるような気もするし、そうでもないような気もする。とにかく油断ならないのは、その時々のラーエルの確信が断言口調で書かれていくので、それがこの本の骨子かと思い込んでしまうと、そのあとの改心や転向を見逃してしまうということで、ここに引き写していった箇所だけでも、あれ、それで、ラーエルは、アーレントは、どういうスタンスでいるんだ? というのを簡単に見失いそうになる。人は生きていく中で何度でも意味を見失い、求め、確信し、また疑う。
ALTSLUM のDiscord でgather というサービスを知った。昨年だか一昨年spacial.chatに感じてたわくわくを感じる。複数人の集まりで、会話がいくつもの小集団に分散して、そこを行き来したり、はしっこで所在ない思いをするのが好きだったので、あれを再現したい。「純喫茶ポイエティーク」とか作って、誰かが来るのをぼーっと待ってようかな、と思い立ち、さっそくやってみる。どうせ誰も来ないだろう、と開けながらネットプリントの制作を進めていると、嬉しいことに何人か来てくださる。これは、たのしいと思う。ちゃんと人を集めて、話したり話さなかったりしたい。突然近寄って話しかけられるのは怖いよな、ということを学んだ。喋んなくてもいいので、「いるな」というのを確認しに来てくれたら嬉しい。端っこのテーブルに座ってるので、話したくなったら来てくださいね、というのをツイートして、来てくれた人と、踊ったり喋ったり、ふっと消えていなくなる瞬間がものがなしくていい。
手を動かしたり、新しいことを試しているうちはごきげんで、にこにこしていたら退勤した奥さんが嬉しそうに、久しぶり、と声をかけてくれる。そうだね、この数日間あんまりいれてなかったね。いまはちゃんといます。でもgather に夢中で、いるけどいなかった。隣で奥さんはポケモンを進める。
ネットプリントが出来上がって、ほんとうにこういうのだったら無限に楽しく書いていられるな、と思う。