2022.02.13

今日は東京堂書店での買い物のつまみ食いをしようと、ウィトゲンシュタインとドゥルーズの序文や第一章を読んでみて、ウィトゲンシュタインに取り掛かるならまじめに『論理哲学論考』からやりたいな、じっくり腰を据えよう、だったらまずはざっくりでも馴染みのある『シネマ』からだな、と思いそこからは築地正明のドゥルーズを読んでいた。元気が出る、というのはドゥルーズの最期を考えると合っているのかわからないが、僕はドゥルーズについて語られる文章を読むと元気が出る。『眼がスクリーンになるとき』もなんだかすごく明るい気持ちで読んでいた記憶があって、でももうほとんど覚えていないから築地の次はそのまま福尾だ、と楽しみにしている。

他人の生を批判し、攻撃し、裁かずにはいられない「病んだ人間」は、今も極めて多い。ウェルズは映画のなかで、そうした「病んだ人間」の様々なタイプを抽出し、陳列してみせている。ではその「病んだ人間」が生を裁こうとする時、彼らは一体何の名のもとにその権利が自分には与えられていると考えるのだろうか。その根拠となっているものとは何か。ニーチェによれば、それは彼らが信じる「善というより優れた価値」であり、〈真理の理想〉なのである。しかし実のところ、それは建前に過ぎない。なぜなら「みずからを病む者」は、背後に、生そのものに対する恨みを、嫉妬を、復讐心を、ルサンチマンを隠し持っているからだ。要するにドゥルーズにとって一切の問題は、「真理」という観念そのものにも、善悪の判断にもなくて、むしろ健康であるか病的であるかという問いのうちにこそある。
自分が正しいと信じて疑わない「真正な人間」は、みずからのうちに「病んだ人間」を隠している。劣等感、嫉妬、羨望、憎しみといった感情を、善や真理の理想によって覆い隠しているのである。この意味で「真正な人間は裁くことに飢えており、彼は生のうちに、悪しきものを、償うべき罪過を見るのである」。すなわちそこには「生そのものを病んだ人間がいる」。──「だが、善や真理といった上位の審級の名のもとに、生を裁くべきではないのだ。そうではなく、反対にあらゆる存在を、あらゆる行為と情熱を、あらゆる価値そのものを、それらがみずからのうちに含んでいる、生との関係において評価すべきなのだ。超越的な価値としての裁きに代わる、内在的な評価としての情動。すなわち「私は裁く」を、「私は好きだ、あるいは私は嫌いだ」によって替えること。ニーチェは、すでに裁きを情動によって替えていたが、読者にこう忠告していた。すなわち善悪の彼岸は、少なくとも、良いと悪いの彼岸のことを意味するのではないと。この悪いとは、疲弊し、退化した生のことであり、それだけにいっそう恐ろしく、広まりやすい。しかし良いとは、噴出し、上昇する生のことであり、それが出会う諸々の力によってみずから変容し、変貌するすべを知っているもののことなのだ。そしてその生は、それら諸力と共に、常により偉大なひとつの力を組成し、生きる力を常に増大させ、常に新たな「可能性」を開くものなのである。なるほど、もはやそのどちらにも真理はない。生成しかない。そしてその生成とは、生における偽の力であり、力の意志である。しかしながら、良きものと悪しきもの、つまり高貴なものと卑しいものはある。物理学者たちに拠ると、高貴なエネルギーとは、変容することができるもののことであるのに対し、卑しいエネルギーのほうは、もはや変容することができない。これら二つの面で力の意志があるのだが、後者はもはや、生の枯渇した生成における支配欲でしかない。それに対して前者は、芸術家であることを欲すること、または「与える徳」であり、迸る生成における、新たな可能性の創造なのである」。

築地正明『わたしたちがこの世界を信じる理由 『シネマ』からのドゥルーズ入門』(河出書房新社) p.104-105 強調原文傍点

ここだけ抜き出すとむしろニーチェが揶揄した健康だけを唯一の審級とするようなありかたと同じ危うさを感じてしまうかもしれないというか、健康と病的という二項対立の図式はすこし怖いな、と僕は感じる。これはちゃんとニーチェやドゥルーズに直接当たる必要がありそうなところ。

僕のドゥルーズ観は多くを偽日記に負っていて、そういう意味では僕は古谷利裕のドゥルーズから元気をもらっているのかもしれない。「素朴な歓び」としての生の自己享楽。それを阻害するものに対する、それ自体充足した抵抗。こうした自己享楽を「健康」と名指しているのだと僕はここでは読んでいる。ここでの「健康」はだから、新自由主義的有用性や、身体の規格化とは遠いところにあるはずだった。

ドゥルーズの「哲学」が闘争的なものであるとしたら、それは生がひとつの「素朴な歓び」としてあることを抑圧し妨害するものに対する闘争であるはずだ。だからその「闘争」自体が歓びを抑圧してしまうものであるとしたら、そのような闘争には何の意味もないだろう。(…)

古谷利裕「ドゥルーズ/ティンゲリー/樫村晴香」 https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20021120

「素朴な歓び」としての生を、超越的な審級によって裁くことはできない。人を裁く善悪の判断の裏には、生を享楽できない「病的」な感情がある。善悪の判断ができないからと言って、良し悪しの判断ができなくなるわけではない。この生をより元気にするものを良いものとして、元気をなくさせるものを悪いものとすることはできる。けれども、善悪の判断も、良し悪しの判断も、「真理」の判断ではない。「もはやそのどちらにも真理はない。生成しかない」。「真理」とは、固定的に定まるものではなく、つねに変容のなかにある。迸る生成は、つねに新たな「真理」を創造する。その創造は形の定まった成果物ではなく、その生成のただなかにしか見出すことはできない、成果物に固定化しようとすれば、すぐに裁きの論理に陳腐化してしまうだろう。そういうようなことが書かれている気がする。

僕は僕の生活が大好きで、生きていること自体が歓びであると信じている。だからこそ、この歓びを減退し、抑圧するあらゆるものに対して強い憤りと抵抗感を覚える。僕にとってのドゥルーズとはそういう過激な自己享楽の肯定の伴走者であり、ものすごく反社会的というか、社会の外側を志向する人だと思っている。頼もしい。でもだからこそ、そうは言ってもヒトは社会的動物だから自己享楽的な観想だけでは生きてゆかれないじゃん、ということを思い出してバランスを取っていかないと、あっという間に彼岸に行ったきり帰って来られなくなるような怖さもある。

例えば今日は本を夢中で読んでいたら、お昼ご飯を食べ損ねた。これは本当に危ない。ちゃんと食べたり飲んだり寝たりして、そのうえで本を読まなくちゃ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。