2022.02.14

昨晩は鍋を突きながら、明日も雪らしいよ、この前の雪は言うほど積もらなかったね、雨予報はかなり当たるようになったけど、雪は難しいのかな、という話になり、そこから雲や雨や雪、この星の水の循環に考えを巡らせているとどんどん訳がわからなくなった。え、水って、なに? 空気って、なんで温度で動いたりしてるの? めちゃ寒いところで水撒くと一瞬で消えるの、あれはなんで? 乾燥の具合や気圧で沸点は変わるんでしょ、じゃあ上空では何度で氷になるんだ? え、そもそもなんで気圧の上下でこんなにつらいんだっけ。なんにもわからないな。途方に暮れた。うちにある天気の本を紐解いてみると、雪というのは小柄な力士で、気圧というのはきゅうりらしい。なるほど。

朝起きると雪が降ったのかどうかもわからなかった。世界は不可思議で、なにもわからない。なぜ雨が降るのかも、雪が降ったのどうかも、この空気中の不可視のもろもろの運動も、どうしたら朝シャッキリと起きられるのかも、なにもかも、わからない。

築地正明のドゥルーズを読み終える。たいへん明るく、ユーモアに満ちたドゥルーズ。僕の好きなドゥルーズだった。

「紋切り型(ルビ:クリシェ)」の氾濫するこの世界のただなかで、他のいかなる世界でもなく、この世界を信じ、愛すること。ドゥルーズは、哲学には、生には、世界への「信仰」が、「信頼」が、絶対に不可欠だと語っているのである。なぜなら「人間は、彼自身その耐えがたいものを実感し、身動きが取れないと感じているその世界と異なる存在なのではない」からだ。芸術には、そしてとりわけ映画には、私たちに「この世界への信頼」を取り戻させる力がある。しかし事実上は、映画は様々な空想的物語を表象し、「紋切り型」を倦むことなく生産する装置になり果ててしまっている。だからこう言ってよければ、『シネマ』の提示する理論とは、メジャーな映画の観念からはおよそかけ離れた、これ以上ないほどマイナーなものである。つまりこの書物それ自体が「言葉」による、「概念」による、支配的な観念への、常識への、「紋切り型」への抵抗であり、様々なマイナーな映画作家たちと切り結ぶことによって果たされる、「集団的な言表の生産」による「抵抗行為」なのである。

築地正明『わたしたちがこの世界を信じる理由 『シネマ』からのドゥルーズ入門』(河出書房新社)p.220 強調原文傍点

ドゥルーズにとっての「思考」とはこの世界そのものへの「信仰」にほかならない。知性とは、何より信じることだ。ここにおいて、ドゥルーズにとっての映画は、保坂和志の小説なのだという、僕にとってはお馴染みの感覚がまたやってくる。

読むことも同じで、「この小説はどう読めばいいのか?」「この小説はどういう困難を抱えながら書かれたのか?」と考えながら読むことが「小説とは何か?」という問いを追い越してゆく。私の場合には小説を読むということは、それを読みながらそこから刺激されたことをどれだけ多く考えることができるかに賭けられていると言ってもいい。
もともと批判したくなるような小説は取り上げていないわけだが、批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。
そんなことは誰も言っていないとしてもそうなのだ。非-当事者的な態度を投げ捨てれば、書かれていることを真に受けるしかない。言葉では「しかない」と、とても限定的な表現になるが、そこにこそ大海が広がっている。教養や知識としての通りいっぺんの小説なんかでない、生命の一環としての思考を拓く小説がそこに姿をあらわす。

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社) p.10 強調原文傍点

この箇所がとても好きで、もう何度引き写したかわからない。僕は引用部分はGoogleKeep で横着することもあるのだけど、今日の二つは自分の手で書き写した。保坂和志のほうが、打ち間違いがすくない。何度も何度も写すうちに、すこしずつ意図やリズムが馴染んでいく。稽古のようなこと。

批判はイロニーであり、しかめ面で、一面的で、全体主義に陥る。ユーモアは、移り気で、多面的で、分岐や散逸を繰り返す。真木悠介のカスタネダは、ユーモアを〈明晰〉、イロニーを〈愚かさ〉と捉え、際限なく拡散していく〈明晰〉なユーモアだけではどこまでもトリップしてしまって日常を送ることができず、〈コントロールされた愚〉すなわち抑制されたイロニーとの往復こそが肝心なのだとしている。イロニー、西洋近代的な固着した「真理」に基づく速く正確な計算は、それはそれで日々の社会生活の運用を助けるだろう。けれどもそれだけでは、この生を四角四面な枠組みのなかにだけ限定し、奔放な生成の可能性を邪魔してしまうだろう。イロニーだけでは僕たちはこの世界を信じることも、感じ取ることもできなくなってしまう。ユーモアが必要だ。ただし、ユーモアだけでもいけない。

僕はずっと程度問題について考えているらしい。奥さんから「漫画の更新はまだ」と催促されたので、面倒だな、と思いながらも『プルーストを読む生活』の2月14日を確認するとそこでも塩梅を探っていた。昨晩ALTSLUMの連載「塩梅を探る」が公開されたばかりだ。これはちょうどいいかもなあ、と嫌々手を動かすと、漫画が出来ていく。出来上がると、それまでずっと面倒だ、何でこんなことを、奥さんも余計なこと言ってくれるよな、と思っていたはずなのに、とっても楽しかったな、という感覚だけが残る。この日記だって、楽しい楽しい思いながら書いているわけではないが、書けば楽しくなる。僕のこの日記もまた、思考すること、信じることに向かって為されている。

自分で、わざわざ自分の手で、クリシェになるべく寄らず、あるいは「紋切り型」を茶化すようにして日々書くこと。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。