朝からお腹の調子が悪い。家を出るまでに三回も便座の上で腹を抱えていた。仕事、行きたくない、ということだろうか。それはそうなのだが、こういう拒否の仕方はなんだか懐かしい感じがあるというか、お腹が痛くて学校に行けないとか、いやしかしそんなこと、本当にあっただろうか。
日記を書くとき、文章がうまくならないように気をつける。べつにうまく書こうと思ったところでうまく書けるわけでもないのだけれど、日記は技巧よりも野蛮さだ。だからうまくやりすぎたという時は、わざと過剰さや冗長さを付与することがある。端的で整然とした文章は、別に僕が書かなくてもよい。あるいは、端正な文章では日記ならではの日々のブレや矛盾が均されてしまう。僕にとって日記は平坦な快適さよりも凹凸を置いておくもので、そもそも日記に限らず言語というものの運用は、肌理ではなく皺を出現させるためにこそある。つるっとした表面という欺瞞を台無しにするもの。それが読み書くということだという感覚がずっとある。
きれいな文章が書けるというのは、ととのった顔立ちや、労働における優秀さや、人当たりのよさなどと似て「いい」ことではあるだろう。けれども、読み書くことは「いい」の公準を強化するだけでなく、逆にその根拠のなさを暴くこともできる。
僕がもっと顔が可愛くて、仕事がちゃんとできて、人に好かれるタイプだったら今のような読み方や書き方はしていなかったはずだ。これは卑下でも誤魔化した不遜でもなく、自分はこうとしかあれない、というただの諦念だ。ない可能性を幻視して苦しまないで済むから、諦めというのはいい。まず諦める。それからできることや工夫の余地を考える。その順番。
いつの間にか根拠の不明瞭な罪悪感みたいなものがなくなっていることに気がついた。なにがあっても悪びれない、という図々しさがある。加齢による下品な意固地さだろうか。だとしたらあまりよくない。誰にも彼にも謝りたい、というのも不健全だが、謝れなくなったらおしまいだ。
バカにされてあげる、という態度。それはこの日記にずっとあるもので、簡単にナメてくれる人ほど簡単で、まっすぐに受け取ってくれる人こそはかりしれない何かを持っている。僕の想定なんか超えて、大真面目に読まれること。そこにこそ賭けたい。こういうことを野暮ったく書いてしまうことを許せてしまうから、こんな日記を書いている。
とりとめもないが140文字には収まっていないことの多いこうした文字列をだらだらと書くというのは、電車やバスでの移動中でないとやらないことで、この二年の日記はとにかく家で書いているからこうした蛇行や散漫さに欠ける。家にいると時間を持て余さない。自分のコントロール可能な範囲のなかに何でもあるように錯覚できるから。外に出れば否応なしにぽっかりと空く時間というのがある。バスを待ったり、電車に揺られる時間、本を読むには頭がぼんやりしている時、僕はようやくラフな思いつきの垂れ流しとして日記を書くことを始められるようだった。暇があったらぬぼーっとしてるだけだ。間隙に現れる退屈でこそ行為はありうる。今日もてきとうなことばっか。
『オーバーヒート』を読んでいる。夕食の時間までお腹の調子はよくないままだ。
