2022.03.14

眩しい。

なに外、初夏じゃん。

時間というのは勝手に流れるなり過ぎるなりするもので、使用しようとか節約しようとかいう発想とはそもそも馴染まない。そのはずなのだけどなにかもっといい使い方はあったのではないかであるとか、焦燥感というのがやってきてしまうことはある。春先はいつもそうだ。

可想場さんという方の、『日常的実践のポイエティーク』を中心に扱った学位論文を読む。良くも悪くもふわふわしていて掴みどころのないセルトーの論がきれいに整理されていて読みでがある。

セルトーの読解は(主に邦題による)「実践」の書だというミスリーディングによって難しくなっている。「なんで民衆というのは上からの支配構造などのシステムによって完全に制御されることがないのだろう?」という現実にある不合理を、無理に合理化することなく理論化するための本だったのだ、という論じ方で、たいへんストイックでよいな、と思う。その禁欲的な態度に最大限の敬意を払いつつ、だからこそ逆説的に、われわれ民衆のなかの一個人は、本論文のようなエリートの冷徹なセルトー読解をてきとうに受け流しつつ、本書をいっそう意識的に「実践」の書として誤読するべきだな、という思いを新たにした感じがある。僕はこの論文によるセルトー読解を、好き勝手に自身の生活上の必要に引用し、読み替え、使っていこう、というような。怒られそうだが、怒られても別に構わないのが民衆の不気味さだ。

また、思想としてのストイックな読解に触れて、ようやくすっきりと理路を見出せた気がするからこそ、宗教者としてのセルトー、不合理なまでにばらばらな現実における信仰というもののあり方についての関心が強くなった。とにかくまたセルトー読みたい、と思わされるいい文章で、今度こそわかった気になれる気がする。五月にまた南森町さんと読書会をやることになりそうで、大変楽しみだ。取り急ぎ図書館で手配できそうなセルトーの本を片っぱしから取り寄せる。

夜はひたすらメールを打つ。即座にレスポンスをいただけることもちらほらあり、それはとても嬉しい。とにかく猛然と動いている感覚がある。日記祭の告知もでる。冗談半分で書いた「文筆家・ポッドキャスター」というふざけた肩書きにいまものすごい後悔を覚えている。なんやねん、ポッドキャスターって、というのはまだちょけてる感じが楽しいのでいいのだけど、文筆家はまだ自称できるようなあれじゃなかったな、という感じだ。しかし僕の自意識なんてしったこっちゃないので、日記祭においては僕は「文筆家・ポッドキャスター」を自称するイタい会社員としてへらへらやっていこうと思う。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。