冷たい雨が降る日。頭も痛く、とても寒く、奥さんはほとんど一日中布団の上に転がっていた。僕はかろうじて仕事をこなしつつも、最低限のことだけやってあとは同じように転がっていた。
先日一気に観た『氷菓』がたいへん面白かったので当時は敬遠していた『涼宮ハルヒの憂鬱』を作業中にだらだら流している。当時は敬遠していたと言ったが、原作は一冊読んだはずだ。だから最初の数話は知っている話で、やたらに壮大だ。当時地方都市において「オタクっぽい」とは純粋に落伍者認定であり、そういうものは暗がりで扱うものだった。ハルヒというのはそうした暗がりが真昼間の地上波に表出する時期の作品で、明るい場所に暗いものが登場する、そのギョッとした気持ちを今もハルヒに投影しているところがある。週末に届く英和新聞「朝日ウィークリー」は毎週新作映画のスクリプトの一部が対訳で掲載されるのを読むのが楽しみで、表紙も多くは海外の文化人たちであったが、そこにAKBが載った時に感じた居心地の悪さや不気味さを今でも鮮明に覚えている。アニメやアイドルを僕が愛好する文化的なものの一つと認めていいのだろうか、と当時の僕は戸惑っていた。今やすっかり文化的なもののようだし、じっさいに素晴らしいなと感じる作品も多い。けれども、その出自からしてつねに文化的な香りがそこにはあったのだとは到底思えないところもあり、それはたとえば小説というものが本来いかがわしいものであるのと同じようなことだ。けっきょくはいかがわしさが後景に引いて、なんだかお行儀のいいもののように大多数に錯覚されるには、時間の経過による忘却や当事者たちの出世なんかが必要なのだ。そしてどこまで権威づけられようとも、もともとある俗悪さや野蛮さはなくなることはない。『アドルムコ会全史』はハルヒの時期に深夜帯でかかっていたアニメ群の醜悪さを思い出すような小説集だと思う。最近はこれと、『精霊に捕まって倒れる』と『ルーダンの憑依』を行き来していて、どれもがそこそこ分厚いからたいへんなことだった。
最近は地震が多い。しかも続くというか、近所でいくつか連続することが重なるようで気がかりだ。感染症流行以降、この暮らしはあっけなく壊れうる、という感覚が強くある。家に面した大通りはいつも以上に交通の音が部屋の中にまで響くようで、雨の日はタイヤが水を切る音や、跳ね返った水がアスファルトに打ちつけられる音など単純に音数が増えるのだろうし、空気中の水分の影響なんかで音の反響の具合も変わるのだろう。なんだか耳がボワボワするような感じがずっとあった。
