ポイエティークRADIO 百回記念のお便りが続々と届くので嬉しい。きょう配信のオムラヂは500回目だそうだ。大先輩。雨の中うろうろするところから始まって、コーヒーショップに落ち着くまでの流れが、なんでもない日常の一欠片のはずなのだけれど、こうして音声で聴くとドラマチックだったりするから面白い。
編集者でもライターでもないのだけれど、音筆の会に会場参加した。問いがあちこちに開かれっ放しの楽しい雑談会。新刊ZINE『雑談・オブ・ザ・デッド』の制作中、『編集の提案』を読んでいて、「プロの編集者の手つきとはどんななんだろう」というのが気になって仕方がなかったのだ。自分の制作が粗野なことはわかる。けれどもZINEとして体裁を整えていくことが目指す方向とも思えない。そんな考えをぼんやり抱えて参加したのだけど、ふいに質問を求められて出てきたのは、ずぶの素人の初歩的に過ぎる質問で、他の参加者の方は呆れただろうな。ぼんやり雑談に耳を傾けながら、何かが生起し変容する「場」を準備し、そこに居合わせるのが編集の役割なのかな、などと考えていたのだけど、そうした演出の仕事の持つ権力についてもっと突っ込んだ話を聴いてみたくなった。他人の言葉を素材として扱うことに対する倫理観のあり方だとか。他人の言葉を素材として切り貼りしながらなにものかを作り出すという営為についての質問をしたかったのだけど、まず自分の言葉をどう扱うか、というところに質問を留めてしまったなあと反省している。僕は自分を素材側に置いて話してしまった。あの場で考えられていたのは調理人の側の手つきだ。
帰り道、そんなようなことを慌ててツイートしておく。こうして実際の場に出かけて行って、でしゃばって質問をしてみたりして、なんとなく失敗したような気分を抱えてすごすご帰るというのはずいぶん久しぶりのことのようで、僕はこうやって、微妙な居心地の悪さや心細さを感じるためにこそ外に出かけるような気がする。場違いではあるけれど、とても面白く話は聴いて、勝手に受け取った気になったいくつかの問いを遊ばせておくと、いつかどこかで形になったりする。そういうふわふわした時間をもっと過ごしたい。奥さんとの安心でよく通用してしまう雑談も大事だが、もっと、あれ、こんなにも届かないのか、とおそろしくなるような、失敗にひらかれた雑談が必要だ。ハーゲンダッツ買って帰る。
右のふくらはぎがいつの間にかえぐれていて、お風呂で沁みた。
なんだ、今日はTwitterのまとめか、と奥さんは心底つまらなそう。けれどもこれは僕の内なる奥さんの話だ。外にいる奥さんは、思ったよりも加筆があった、と言ってくれる。もっとつまらない時がある、と。まじでただのTogetter みたいな時ある、と。