2022.06.01

昼間に奥さんと散歩に出掛けて、目当てのカフェは休業日だったのだけど、手を繋いで楽しくおしゃべりをしながら歩くというだけで楽しかった。パン屋でパンを買って帰る。

歩きながら何を興奮気味に話していたかというと、今日からAmazon Primeでの配信が始まった『心霊マスターテープ-EYE-』のことだ。今年の始めの放送から半年ちかくずっと楽しみにしていた作品。最初の10分ですでに好きだった。このシリーズは、フェイクドキュメンタリーの構造をメタに描き出すことで、自己言及的に制作者のもがきや楽しさが炙り出されていくところが非常にぐっとくる。ボラーニョの『野生の探偵たち』、『センシニ』、『エンリケ・マルティン』あたりを思い出す。メイクや撮影、編集の情景が撮られるだけで僕はもうにこにこしてしまう。このシリーズは、何者にもなれない制作者の物語だと思っている。けれども、エピソード1の最後からして、この後の展開はかなりうまくやらないとそうとう陳腐なものになりそう、という危うさがあった。だからエピソード1の最初の二〇分がいちばん面白いかも、と話していた。

そして実際に観終えてみると、やっぱり期待は悪い意味で裏切られた感じがあった。今作の監督である谷口猛ものとして見れば、『心霊×カルト×アウトロー』の順当な延長線上にある作品なのはわかるし、ジャンルものとしては面白さもかなりあると言っていいかもしれないけれど、『心霊マスターテープ』としてこれをやるか? とどうしても考えてしまう。プロットとしてはよくありがちな「まなざす/撮る」側のエゴの自嘲的な反省(に見せかけた自己陶酔)の話だった。これは、前作までの、権力や暴力の主体としての男性という欺瞞を解体し、一方的に「まなざされる/撮られる」役割を負わされてきた女性や幽霊の側へと主体性を返していくようなスマートさから、何歩も後退している。今作では、女性のあり方は「かわいそうな犠牲者」や「理解のある彼女」みたいなステレオタイプに退行し、小劇場的な制作者のホモソーシャル自己陶酔に終始してしまったように感じた。テロップやリプレイやナレーションを無くせば「新しい」ということではないというか、精神性からすればかなり保守的な作品だと思う。

かなり残念な気持ちで、一作目の『心霊マスターテープ』を見返す。この男性性への自覚的なユーモアとアイロニー。僕はやっぱりこれと、二作目の岩澤監督周りが非常に好きだな。『心霊玉手匣』を経て見返すとまた一層にいいだろうと思う。そして薔薇に至るマチズモのパロディ。バディが何組もいて閉じていないのもいい。いくつもの関係性が複層的にあり、風通しがいい。『EYE』はそもそも自閉したエゴの話なので、息苦しくて正解なのだが、そもそも僕は創作者のエゴの話というのは大体見ていて「お前のエゴ、ちっさ!」と白けてしまうところがある。やるならフェリーニくらい突き抜けて欲しい。しゃらくさいアリバイにすらなりきれない反省の身振りとかいらんよ。

夜は楽しい録音。はじめましての程よい緊張感で、でもちゃんと共鳴するようなお喋りができたんじゃないかと思う。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。