2022.06.07

ステーキが食べたくてお昼を外にとりに行ったら雨に降られて悲しくなってしまう。

今日はちょっとしたうまくいかなさで苛々してしまう日で、駄々っ子のように、なんで!なんで!なんで!とのたうち回っていた。奥さんの前で憮然とした顔をして、あらゆる悪態をつくさまを見せびらかすと、うるさ、という顔をされたので、大人しくiPadを持ってきて一緒にサロメ嬢の配信アーカイヴを見て、麗しい暴言のあんまりさにケタケタ笑ってすっきりした。

それでもやっぱり仕事のちょっとしたやり取りのたびに、いやです、いやっ、もういや!と両手をばたつかせ、高ぶる感情をどう名付けていいのかもわからないまま、もどかしさに顔がさっと赤くなっていくのを感じて、なにも制御できず作用できない自分が悔しくて鼻の奥がツンとする。泣くまい、と思えば思うほど鼻水は迫り上がってきて、気がつけば呼吸もままならないほどしゃくりを上げている。そうやってよく泣く子供であった。あのような泣きかたを、またできるだろうか。言葉にできないせいで論点さえも提示できない悔しさに、泣き終えた帰り道や布団の中で、何度も何度も相手への伝えかたをシミュレートした。教室で名演説をぶちあげ、学校の理不尽を鮮やかに暴き喝采を浴びるシーンを妄想した。そういう素振りがあって今の自分があるというとあまりにそれっぽくて嘘くさいから嘘だろう。

弟にいつだか「いちいち毎回イチから説明するからすごい」と褒められたことがある。インターネットは簡単に同好の士を集めてくれるが、だからこそふだん親しんでいる世界がほんの隣の誰かにとっての未知であることを忘れがちだ。それはべつに知っている側がすごいとか、変わっているとか、そういう阿呆くさい選民的自意識を正当化しない。ただ人それぞれというだけの話だ。僕の好きなものをみんなが知っているわけではない。当然のこと。だから同僚に2.5次元という言葉が通じなければイチから説明するし、奥さんがわかんなくなれば何度だってあんみつとみつまめの違いを説明する。相手が興味あるかどうかは関係がない。相手がおざなりであれ訊いてくるのであれば、ちゃんとわかるように相手の既知から説明をするというのは当然のことだ。僕はネットミームや、ある界隈だけで通用する符牒を平気で初対面の人に使えてしまう人が苦手なのだが、それは相手と自分の立っている場所が違う可能性への鈍感さを感じ取ってしまうからかもしれない。

苛立ちがおさまらないので腕立てなどを厳し目に行い、プロテインをがぶ飲みすると胸や腕がパンパンになって面白かった。すぐに萎んでしまうのだが、張っている腕は自分のものじゃないみたいで面白く、見せびらかしたくなる。体が大きくなる愉快さは、誰も僕の筋肉に興味がないことを忘れさせてしまいそうで怖い。たまに会う人で少なくない人たちは、痩せましたか、と声をかけてくれるのだが、これは呪いだと思う。『心霊マスターテープ-EYE-』でも「もっとも簡便な呪いは毎日“大丈夫ですか、顔色悪いですよ”と声をかけること。そうしていると相手はみるみる具合悪くなっていきますよ」というような台詞があるが、実態がどうあれ毎日のように痩せた痩せたと言われればこちらもげっそりしてきてしまう。嘘でもいいから太りましたか、ムキムキですね、キレてますねえと声をかけて欲しいものだ。

今日は愚痴っぽいですね。いやだいやだ。ぶつくさぶつくさ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。