僕が小学生くらいの頃だから二〇年とか前だろう。テレビで速読の特集があり、速読を身につけた少年少女にカメラが向けられていた。未成年保護のためか、顔にはぼかしが入っているが、子らは見事に一冊の本を二分とかで読み終えてみせる。ここまでは、へえ、と眺めていた。番組はさらに信じられないことを知らせてくる。ある速読を極めた少女は、とうとう本を開かないうちから内容を見通すことができるというのだ!
バカだ。
少年柿内は静かに衝撃を受けた。こんなほら話に、大の大人たちが白昼堂々さわいでいる。真面目な顔をして、ワイシャツを着た男の人が出てきます、などと答える少女もあほくさい。顔にはぼかしがかかっているのだが、どうせ神妙な面持ちを作っていたにちがいないのだ。
速読は技術であって超能力ではない。少年柿内は超能力や宇宙人の話が大好きだったが、速読と透視を同列に語ろうとする無理には納得がいかなかった。それは、技術と奇跡の両方を軽んじている。ほらはほら、技術は技術として語られなければならない。それはそもそも同時に語れるものではないのだ。スキーウェアとイエティを並べるようなものだ。バカにするな!
そんなことを、ふと思い出した。特に何かきっかけがあるでもない。
二〇代の前半ごろはやたらと思い出す日々だった。僕の大学時代は思い出す時間だったと言ってもいい。就職してから思い出すことが減った。思い出さないでいるとどんどん現在は空疎で、厚みを失う。直近の過去を書き留めるこの日記はいつかの僕の思い出しを助けるだろうが、今これを書く僕がきちんと過去を思い出せるようにして書くことだってできるはずだった。
二、三年前の日記を読むと、何も覚えてなくてびびる。書き捨ててしまったのだろう。書くことは手放すこと。手元になにかを残していては仕方がない。
喫茶へそまがりに行きたい。綱島ラジウム温泉 東京園に行きたい。行きたいところがどんどんなくなっていくのは寂しいというより子供っぽい憤りが先に来る。なくなるのはいやだ!
スペースネコ穴はあるが、京都はそう近くはない。