ある本の後書きを読んでいて、ああ僕はやっぱり勉強している人が好きだな、と思う。先駆者たちのテクニカルな部分を通じて、ある文脈において通底する問いとは何かを探究する態度。それがないままただ手ぶらで打ち出す「自分らしさ」ほど陳腐でくだらないものもない。独自性というのは、積み上げられた文脈の上に置かれてはじめて機能するものであって、批判精神を欠いたありのままの個人の特性というのはほとんど現状の社会の最大公約数と近似だ。
この日記においても、僕が興奮して書き飛ばしているところにこそ社会的な共同幻想への無自覚な接近が潜んでいる。『プルーストを読む生活』のころにときおり表明される軽薄さはそのようなインターネットの大衆への過剰な擬態によって成立しているが、それ以後の日記ではそうした身振りからすこし遠のくように試行しており、それはパロディがパロディとして機能しない、みずからの大衆性を自覚しない人たちが多数派になった──それははじめからそうだったのかもしれない──状況への苛立ちからでもある。
社会性を欠いた個人の雑感にこそ、いまは社会的な意義を感じる。倒錯しているが。
この週末は一族が京都に集合するというイベントがあり、行きの新幹線ですでに日記を済ませておこうという魂胆だ。架空の柿内一族のメンバーの名前を考える。柿内早朝(総長)、柿内黎明、柿内正午、柿内午後、柿内夕方、柿内夜、柿内夜更、柿内深夜……
柿内夜更、いいな。「かきないよふかし」と読む。怪談作家になることがあればこの名前でいこう。夜は眠いが。