『第七脳釘怪談』を読み終える。帯にもなっている「プールにいっぱい浮いていた」がたいへん好み。来週また三柴さんとおしゃべりすることになっていて、そこでは六月発売の竹書房怪談文庫について語ろうということで出た五冊ぜんぶに目を通している最中なのだけれど、すでに自分の好みがはっきりしていることを自覚させられる。
まず僕は──「プールにいっぱい浮いていた」もそうだが──複数人による証言モノがたいへん好きだ。「かおるちゃん」「象が逃げました」「カープテ」など、朱雀門出の話に多いような気がするのだけれど、自分だけが可怪しいわけではなく、どうやら本当に世界の方に可怪しさがあるという感触。これがたまらない。それに怪異に対して妙に実証主義的である様子もユーモラスでかわいい。
次に、僕は怪談の語彙を持つ人間の体験談があんまり好きではない。怪異だとか霊みたいな語彙が咄嗟に出てくる人というのは、ある種の極端な人なのであって、そういう人が〈視た〉と証言するような話は、不可解さを前にした不安よりも、自分の世界観が証明された誇らしさだったり安堵みたいなものが先立ってしまう感じがある。それはつまらない。僕が怪談に求めるのは個々人の環世界への信の揺さぶりであって、妄念の強化ではない。怪談的想像力から縁遠い人たちが、それぞれの語彙で語るわけのわからなさが面白い。
第三に、これは第二の嗜好とも関係するのだけれど、怪異について因果関係をはっきりさせようとする態度が嫌い。理由は先に述べた通り。僕は怪談の本質とは、期待したカタルシスが到来しないことだと思っている。
四つ目。歴史上名前が残っているタイプの人物の怨霊に興味がない。なぜなら僕にとって怪談とは、歴史的に検討できるような文書から書き漏れたもの、語られることのなかったものたちのためにこそあるからだ。
まだそれぞれの本の頭の方にざっと目を通しただけなのだけど、すでにこんなに言いたいことが出てきている。玉石混合で量をこなすことで見えてくるものというのは確かにあって、いいものばかり読んでいても審美眼というのは大袈裟かもだけれど、自分の趣味というのははっきりしないものなのかもしれない。
明日は遠出の予定だから、たくさん怪談本を読むぞと意気込んでいる。