2022.07.16

目が覚めると両脇腹にキリキリとした痛みがある。姿勢を変えても治らず、仕方がないのでぽやぽやした頭を持ち上げトイレに。メガネをかけていないので視界もぼやけていてまだ夢の途中のような感覚がある。夢ではなんだかマスクをつけていなくて怖い思いをしたような。びっくりするほどどっさりとうんちが出る。さいきんお腹がぽこんと盛り上がっていて、肉がついたと喜んでいたのだけど、張っていただけなのかもしれない。張り出した分のお腹がごっそりと凹んで、ぺたんこになってしまった。これだけ老廃物が絞り出されると、もう一生起き上がらないかもしれないという毎朝お馴染みの倦怠感も一緒に排泄された感じがある。鬱屈とした気分が軽くなるとすぐに体の不調に意識がいく。いつのまにかふくらはぎに痛みがある。揉んでみると固い。

腕が負荷をかけてくれとせがんでやまない。家電量販店でダンベルを試してみる。3キロくらいかと思ったが物足りず、7キロでもよさそうだったが高いので5キロ二個セットをAmazonでポチる。本屋に対してはしない現物確認からの他社通販で購入という消費行動を、本以外のものだと簡単にやってのけてしまう。この二ヶ月くらいの筋トレ熱は面白い。僕はずっと色白で猫背で痩せ型の自分が好きだった。大学時代に猫背はやめた。腰がやばかったから。痩せ型のほうが格好いいという意識も薄らいできて、今はむちむちになりたい。この変化が加齢によるものなのかはわからないが、加齢によって男らしさみたいなものへの屈託が薄らいでいくのだとしたらそれは少し怖いことだ。家父長制への無自覚の馴致とも言える。しかし自覚としてはオスに最適化された社会への過剰適合というよりは、他人から構われたい気持ちよりも自分で自分にいい感じだねと言ってあげたい気持ちのほうが強くなったからだという感じがある。他人からの好印象を稼ぐよりも、自分の体に餌あげて大きくしたほうが満足や安心があるというか、もはや誰も僕に関心などないというような認識が、落胆も悲しさもなくフラットになされていて、黙々と自分で自分をケアしてあげることに注力できるようになってきた。自己変容の愉悦と、コントロール可能性の拡充の満足が共存しているところも面白い。僕はまだどうにでもなれるし、その変化をある程度までは制御できるという驕りをおだててくれる。

僕は可愛いと思われたいと常々思っているが、ビジュアルの面で子鹿のような可憐さを追求するのはもう限界だという気持ちもある。というか、そうした可憐さを追求するためにも筋肉をつけておかないと、どんどんくたびれるばかりだという危機感だ。どうせ自宅で気の向いたときにてろてろ鍛えているだけじゃそんなに大きくはならないから、細さや肌艶の維持のためにもちゃんと肉をつけるべきだった。細身の服が好きだったのが、どんどんラフな格好を選ぶようになってきたことも大きい。ラフな格好は、体ができてないとしまらないのだ。体さえ整っていれば何着ても決まるというのは残酷だが明白な事実だ。貧相な僕は何着ても貧相。貧相でない僕を見てみたい。自分の体に数値を持ち込むことへの抵抗感は拭えないが、数値は便利なものだ。これまで17前後をふらふらしていたBMIも、最近は18が見えてきた。

毎日ほぼ日を愛読していた小学生のころ父に教えてもらったエピソードがある。筋トレにハマっていた糸井重里がことあるごとに筋肉を自慢して回っていたら、清水ミチコが「誰もあんたに筋肉を求めてない」と言い放ったというもの。僕はこの話が大好きで、でも自分がいまそのころの糸井重里になっているのを感じる。ほらほら、と毎日のように出来上がっていく胸の筋肉を奥さんに見せびらかしている。たまに腕が太くなってる! 枝だったのが、鉄パイプくらい? などとケラケラ笑ってくれる奥さんも、おそらくは大半の時間、清水ミチコと似た気持ちで僕を見守っているのだと思う。

自分が滑稽だ。ダンベルが待ち遠しい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。