配信されたきのうの録音を聴き返していて、きのうのあれはなんだかいい時間だったな、と思う。もっと人懐こいチラシとか作って、ご近所さんにも開いていって、小台の人たちの話をうっかり聞いてみる、そういうものとしてまたやりたい気持ちが出てくる。それか、不定期にてきとうな喫茶店で一人待ち構えて、来てくれた人と録音するとか。僕はそうやって来るかもわからない人を待つのが好きらしい。本を作って売るのも、雑談を配信するのも、似たようなこと。なにかを置いてみて、誰か来るかどうかそわそわ待ち構える。偶然隣り合った人たちの、取るに足らない些細な話を聞いてみたい。例えば僕の自我の芽生えのひとつは、一人でシャワーを浴びているとき、こうやって頭を洗うのはもう何度目かわからないけれど、これから生きている間ほぼ毎晩のようにこうして頭を洗うのだ、こうしてある日のある晩、こんなことを考えながら頭を洗ったことを僕は思い出せるだろうか、そんな考えが浮かんだ。頭を洗うとき、たまにこのことを思い出し、子供の頃の自分も確かに自分らしい、とこの自分というものの連続性を確かめることがある。そんなような話を聞きたい。
『会社員の哲学』を読んでもらえて嬉しかったのでスズキナオさんの『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を買って読んだ。ほこほことした心持ちになるいい本で、お金をかけずに楽しく遊ぶ工夫を、ずいぶんないがしろにしていたな、と気がつく。昨日の雑談の録音なんかはだいぶいい遊びだったし、そうやって自分で町に余白を作っていくような行為を機嫌よく重ねていきたいな、といつの間にか凝り固まっていたものがゆるゆるとほぐされていくようないい本だった。このスタンスに何度も立ち返りたいというか、滝口悠生の小説もそうだが、どうやらこの二年以上のあいだ、感染症のことをつねに考えながらの生活の中ですり減っていたのは日々を大らかに面白がる呑気さだったな、と思うことが増えてきて、ようやくこの日記もゆるさを取り戻せそうな気配がある。
「Maybe Baby」というニュースレターの購読を始めて、とてもいいエッセイが毎週届く。英語だからちょっとした短編を読むくらいの時間をかけて、GoogleやDeepL の力を借りつつ読んでいくのだけど、人文知と感性とが嫌味なく溶け合っていて、個人的な話と社会とをつなぎつつ分離する塩梅にはっとする。僕はいつしか、感じやすさというか、感受性の鋭敏さを意識的に閉ざしてきた自覚がある。ほんの二、三年くらい前まではすぐに感激し、感化され、潔癖に反抗し、熱烈に没頭した。とくに五輪の経験はそうした鋭さへの警戒を強くして、僕はある種の「強さ」を求めてすぐには動じないことを志向してしまった部分がある気がする。Haley Nahman のエッセイを読みながら、世界を感じることを怖がらないようにしよう、感じたことを素朴な感傷にほろ酔いつつ描くことを自嘲しないようにしてあげよう、多少傷ついたって大丈夫なくらいには丈夫になったとはいえ、根はメランコリックな人間であることを自制することはないのかもしれない、などと考え事は進んでいった。年相応の知的さと呑気さを、それでいてめそめそすることを我慢しない。そんな感じでてろてろやっていきたい。
