2022.08.14

中央線沿いはいつも遠い。上京前は中央線こそが東京だと思い込んでいた。実際に住んだのは梅ヶ丘だったが、それは下北沢に住みたかったからで、下北沢は中央線だと思っていた。名古屋から見た東京というのはその程度のもので、かなり大掴みなものだ。せっかくなので高円寺で途中下車して、エリックサウスのビリヤニのお店に寄ってみることに。鯖ビリヤニとベジビリヤニを注文。サマーラッシーとクラフトコーラもつけちゃう。炊かれるのを待つあいだ、かつて抱いていた中央線への憧れは今や霧散して、どちらかというと京都や大阪のほうが面白そうに感じる、というか、かつて中央線に抱いていた幻想をいま僕は関西の方に抱いている、というような話をした。

そもそも東京の一エリアと京都や大阪という地方とではサイズが違って比較にならないし、ただ遠くにある方がよくわからないから一挙にまとめて考えちゃうだけでは、と奥さんは冷静だが、僕はそういう話がしたいのではない。いつしか僕の人生から憧れが消失した、そのことを話したいのだ。なんだかすごい言い回し、と奥さんは言うが、どうも奥さんとこういう話をするときすれ違いを感じる。埼玉で生まれ育った奥さんは東京への幻想もないし、基本的に自分の属性や境遇を前提として考えるから自分ではない誰かを羨んだりすることがないという。いや、憧れと羨望はまた違うんじゃないかな、と応えてみる。憧れがわからない、説明して。そう言われても、憧れという感情を持たない人に憧れを説明するのは難しい。憧れとは懐かしさみたいなもので、遠さと関係がある。触れるとか同化できるとかは始めから思っていないんだけど、その対象のことを考えると胸が熱くなるような感情、あるいは、あなたが教えてくれたなだいなだの本で北極星に喩えられていた共産主義のように、実現しないユートピアではあってもその存在が灯台のように歩む道を指し示してくれるような、いても経ってもられずその名前をノートに書き連ねてしまうような、そういう。その人にない感情について説明するというのは、他者の圧倒的な他者っぷりに驚くいい体験だな、と面白い。最終的になんとなく奥さんのそれらしい感情を見つけることができたが、やはり縁もゆかりもない誰かに憧れるというのはわからなそうだった。

三鷹に移動するとかなりギリギリで、開演二分前とかにSCOOL に到着。はじめて来た。Dr. Holiday Laboratory(派生vol.1)『シャッセナンビ』、強度や密度がとても高い戯曲を、しなやかな体たちでなんとか立ち上げようと足掻く前作と打って変わり、今回は戯曲も俳優の体も非常に素朴。平明な言葉と仕掛け、よたよたとしたラフな動きと声。下書きやデッサンのような粗さが丁度いい短編。ロビンさんの未完成さは、動的でとにかく全力だった前作では異物感が魅力だったが今回のような静かな芝居だと拙さが悪目立ちするようで、対するかれらさんも体幹が強くなさそうで足捌きが格好よくない、総じて二人の動きは貧しい。けれどもその貧しさが、その場にいないZOOM 越しの俳優の存在感を際立たせてもいて、ZOOM 越しの実在に負けかねない現前する身体というのが面白さになっていた。どこまで意図的かはわからないけれど、素朴な戯曲の言葉のあり方も手伝って、目の前にあるもののぺらぺらさが、いまここにないものの深さや奥行きを際立たせているようにも見えた。

終演後肩を叩かれて、下駄くんがいた。終演後の挨拶は苦手なので会場の写真をちょっと撮って、そのまま退場。かれらさんとは往復書簡をしているが、これまであまり話したことはない。ここで一度話してしまうよりも、もうすこし文字メインでの人間でいたかったというのもある。せっかく三鷹まで来たし、と周囲を散歩する。下駄くんと三人で水中書店に行き、各自解散して物色。支払いは現金のみだったので手持ちで買える最大を考えて買ったのだとあとで下駄くんは話してくれた。僕はアフタートークで佐々木敦を見たら批評が読みたくなったのではすみんやあずまんを適当に見繕って買った。それからさらに北上してニンカフェでコーヒーを飲む。プリンとかぼちゃのチーズケーキ。エルビスサンドを注文した下駄くんは新幹線の時間ギリギリまで付き合ってくれたが間に合っただろうか。

二人になって、りんてん舎に。さっきカフェでTwitterを見たら二日前の入荷ツイートに香山哲『ランチパックの本』が写っているのを見つけて胸がときめいた。まだあるかな、もうないかな、そわそわと店内を探し、あった! 嬉しいなあ。そのまま批評や小説の棚でいくつか読みたいものや手元に置いておきたいものに目をつけ、レジ横の思想コーナーを吟味しているとなんと『ルッチャ 創刊號』を発見。思わず個人的なお宝を見つけてほくほく。さすがはかつてZINE 版『プルーストを読む生活』を置いてくれていた古本屋だ。奥さんはクトゥルフの漫画を立ち読みしていて、帰りにニコラス・ケイジの映画との相違を話してくれた。結論として、ニコラス・ケイジの映画はよくできているとのこと。

帰りの電車でいきなりむわっと湿度が上がる瞬間があり、二人して気絶しそうになる。ちょっと気絶した。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。