「哲学の劇場」のポッドキャストで紹介されていた、ドゥルーズの「左」の定義が面白かった。『アベセデール』のDVD本は、販売当初はお金がなくて買えなくて、今となっては高騰しているので悔しい。いちばん必要な時にその必要を満たすお金がないというのは本当に悔しいことだ。生活が安定してからの買い物は復讐だと思う。けれども、やっぱり当時のひりついた渇きが遡行的に解消されるなんてことはありえないのだ。で、「左」つまり左派というのは知覚の問題なのだとドゥルーズは応えたという。じぶんからいちばん遠くにあるものから始めるのが左派で、自分を中心にして近くのものの利害から始めるのが左派でないものなのだと。自分とは遠く隔たって直に接することの難しい他者から始める左派のアプローチは、生活の実感からではなく、理念を足掛かりとするほかない。概念をこねくり回すことは、いまここから距離がある他者へと生成変化していくことを目指すことになる。この定義からすると、当事者であることを賭け金とする態度は、むしろ左派からかなり遠いのかもしれない。誰もが自分を中心として語り、その距離を乗り越えて遠くから始めようとしない状況は、左右の分断や対立の深化というよりも、むしろ左派的なものの不在と言えるのではないか。
言葉が解釈の多義性にさらされ無効化し、身体性がもてはやされるとき、遠くから始める態度は自身の居場所を見出せない。自分事でないことを、実感に基づかない場所で真剣に考えるためには、当事者というものを相対化することが要請されるのかもしれない。少なくとも、非当事者は当事者を距離や差異においてとらえるほかない。当事者を問題との近さによって特権化することは、むしろ自分が当事者である問題だけに配慮する態度を正当化し、遠くでより大きな問題に困っている他者への無関心を強化しかねない。当事者だけが声を上げ、多数の非当事者は関係のない顔をする。このような状況の解消は、むしろ無責任な非当事者が理念や概念を掲げてわあわあ言うようになってようやく成されるのではないか。自分には無関係な問題が、誰かにとっての死活問題であるとき、その問題の解消を求めて動くのは、困っている当事者である必要はない。もちろん他人事である以上、当事者のすべてを汲み尽くすことは不可能だろう。だからこそ遠くの他者をとらえるために構築された言葉の目的や用途を学び、使っていく必要がある。そのためには一度自分を脇に置いて読む態度がなくてはならない。読み手としての自分ではなく、書き手である他人の背景や問題意識を起点として読むということだ。自分の実感にだけ立脚する読解など成立しない。他者の問題は他者の立脚点から眺めなくてはいけない。
自分事でない問題に首を突っ込む無責任な軽薄さが足りていない。そうした軽薄さは余裕がないとできないからだ。いま余裕がある人たちは多かれ少なかれ既存の構造の恩恵を受けているから、首を突っ込むとしても既存の構造を補強し延命するようなものにしか突っ込まない。もうすこし良心的な人たちは、そのような自身の特権に後ろめたさを感じ、他人の問題にしゃしゃり出ていくことを思慮深く控えてしまう。おせっかいで理屈っぽいバカが足りていない。そう思いつつも、僕もそうはなれていない。困っているから困っている人と共有する困りごとのもとに連帯するのではなく、自分は困っていなくて余裕があるからこそ困っている人の困りごとが取り除かれることを真剣に求める、そういう他人事への集合の、いいやり方がないものだろうかと考えては、答えが出なくてモヤモヤしている。なぜなら誰しも多かれ少なかれ困っていて、自分の困りごとでいっぱいいっぱいだったりするからだ。余裕なんてもうほとんどどこにもない。でも余裕がないと他人事に集まれない。集まれないと問題は解消しない。どうしたらいいんだ。痩せ我慢だろうか。痩せ我慢の美学の復興が必要なのかもしれない。こういうことを考えていると、どんどん寅さん的なものの重要さが実感されていくような感じがある。『男はつらいよ』をいま見ると、批判的なまなざしよりも驚嘆のほうが大きくなっているだろう。寅さんは自己中心的に見えて、つねに遠くにあるものから始めている。いまは失われたようにも思える左派のあり方そのものじゃないか。