おちんちんというのはレヴィナス的な意味において「顔」だ。性器に限らず顔も胸筋もお尻もそうなのだと銭湯に来るたび思う。サウナに入って水風呂で気持ちよくなって、外の椅子で休んでいるとき、自分の目線の高さをさまざまな局部が通り過ぎていく。サウナに入っているとき、室内で流れるテレビの与太話すらも入ってこないくらい、僕の思考は停止していて、厳密に言えばサウナのなかに言語はない。ただ涙腺の解放と呼気の温度の変化で判明する内臓の状況だけがあって、言葉による思索はどこにもない。まず脇と額が濡れ、次第に胸、太ももと順に滲んでいく。唇がひりついてくるとそろそろ立ち上がる合図。そこまで冷たくない水風呂に顎まで浸かる。ここでは呼気が冷たくなるのが時機であり、体はいつまでも水との関係のなかで火照りの輪郭を帯びている。それでベンチで休んでいると、まず脛のあたりからじんわりと快感が広がっていく。背中から首筋まで這い上がってきたらしめたもので、ああ、とても気持ちがいいな、と目を瞑ることになる。その瞬間を待ち構えるあいだ、僕の目線の高さを男性器が通過していく。大胆な手捻りの陶器、台無しにされた粘土、張りのある管、弛緩しきった袋、クリオネみたいなやつ、親指みたいなやつ。他者の形というのは驚きだ。誰も自分のような形をしていないくせに、同じ人間であることを疑いもしない。
午前中から東京駅に集まって、「H.A.Bノ冊子」の会合。乗り換えの段階で勘違いしていて有楽町から歩いたのだが、しれっと遅刻だった。青木さんも笠井さんも遅刻だったから頼もしい気持ちになる。松井さんが選んでくださったお店でお蕎麦を食べる。笠井さんと友田さんが頼んだちらし寿司の形態が色々と斬新だった。細かい卑近な話から無理なく社会へ繋がっていくような、気持ちのいい雑談が交わされて、楽しいな、と思う。お酒が飲みたくなったが堪えた。河岸を変えるつもりで、でも丸の内のカフェはどこも満杯で、丸ビルのテラスのようなところに屯したりしつつ、最後は東京駅前のロータリーに等間隔に配置された植え込みの麓に寄り添って、めいめい座ったり立ったりしながら話していた。とてもいい時間で、僕らはこの時間に一銭も払っていないという事実も気持ちがよかった。植え込みの根元では、庭の雀が器用に砂浴びしていて、僕は青木さんの発言の半分を捉え損ねたが、雀の行為と同じくらいの器用さで空返事を繰り返していたのだと思う。誰かが写真とりましょうよ、と言ってくれて、友田さんがiPhoneで上手にみんなが収まるように自撮りしてくれた。とてもいい一葉で、写真はとてもいいものだな、と思う。
山手線で巣鴨に移動して、サンフラワーかSAKURAかで迷うが外気浴欲しさに後者へ。道中、この国では宗教ということになっている法人の施設ではちょうどセミナーが終わったタイミングらしく、建物からおじさんやおばさんが吐き出されてくる。三メートル間隔で並んだ係の人が、お気をつけてお帰りください、といちいち声をかける。聴衆の多くはチャリで帰る。チャリ圏内なんだ、と僕は思う。いかにも巣鴨という最大公約数的なその人たちの身なりになんとなく物足りなさを感じるが、あっという間に町に溶け込む様子は恐ろしくもある。それでサウナでろくに読んでもいないレヴィナスのことを考えた。たっぷり二時間。
小説的思考塾。会場で声を聴き、落ち着きのない足元を眺めるだけで元気が出てくる。かれらさんともようやく顔を合わせてお話ができたし、喋り足りないな、と思えたのも頼もしい。何より山本さんと雑談できたのが嬉しくて、彼の制作物における「国家」の定義について聞けたことがなによりだった。戸惑っていた部分について腑に落ちる感覚があって、いますぐ論稿を読み返したい。
無性に制作したい気持ちと、あくまで僕は読者なのだという気持ちが均等に湧いてくる一日で、気持ちは明るい。もっとよく読みたいし、そのためにも書かざるをえない。