2022.09.13

きのうの日記に対して『正反対の君と僕』の作者の『氷の城壁』という過去作を教えてもらって、はじめてコミックシーモアにアクセスする。縦スクロールの漫画で、この形式に僕は非常に苦手意識があった。縦方向の単線的な移動しかないから視線誘導が単調で、漫画のもつ文法の複雑さの大半が削がれていると感じるから。読んだこともないくせに随分はっきりとした感覚を持っている。でもきっと面白いのだろうから、えいやと読み出すとこれもまたいい漫画で、でもやっぱり縦スクロールは単調だ。一ページあるいは見開きへの情報の配置、それぞれのコマの密度を調整することで左右上下への視線の導線を巧みに操作すること。あるいはほどよい混乱を与えて立ち止まらせたり引き返えさせたりする技術。そうした制作の手数がずいぶん限定されて、とにかくするすると読めてしまうのは物足りない。僕はどうやら視線は縦より横の移動のほうが負荷がかかるらしく、縦スクロールの漫画はそうした高負荷の視線の飛躍が生じえない。僕はどんな読書も負荷がかかる瞬間にこそはしゃぐ。ストレスのない読書など何が楽しいのだろうか。ううむ、と思いつつもあっさり夢中で読んでいて、半分くらいは無料開放されていたのだったか。途中でじれったくなってアプリを入れて全百十七話を一括購入した。このボリュームで三千円くらいか。カラーだしこんなものなのだろうけれど、紙の漫画の異様な安さに慣れているとずいぶん割高に感じる。これ、縦横にコマを配置したら単行本二、三冊分しかないんじゃないかな。そうでもないんだろうか。文句を言うなら無料になってない後半だけ買えば半額くらいでよかったのだろうけれど、『正反対の君と僕』も無料で読めてしまったし、そろそろお金を使いたかったからなんでもいい。後でまとめて読み返したくなるだろうし、奥さんにもおすすめしたいし、などと理由を後付けで考えてはいけるが、こういうやりくり上手の対極になるようなお金の使い方を、僕は貧乏学生のころからしがちで、ある種の太っ腹さをなかば義務のように捉えているようなところがある。せめてこの資本主義というシステムを気前のよさの方向に利用したい、というような。

それで『氷の城壁』を読んでいた。これもまたみんなを好きになる漫画で、誰もが自分の自分でも認められない状態と、周囲の関係の網目とをきめ細かく観察して言語化していく。信頼できる人との対話を通して形成していく洞察に励まされるように、たったひとり、すこしでもよい方向へと踏み出していく。その踏み出しの勇敢さ。そしてそうした必死の一歩を支えたり、受け止める勇敢さ。誰もが不安で、恥ずかしくて、怖い。だからこそ、それでも、と殻を破ろうとする行為も、その行為を真正面から応援する行為も、ひとしく尊い。みんな臆病でずるくて、それでもまっすぐに伝えようとする。伝えようとされたらわかろうとする。どちらもとても怖いことだ。怖いことだとみんなわかっているから、声を出す人も、応答する人も、毎回が真剣で、僕はもう、誰も彼もが格好よくて仕方がない。

『氷の城壁』は『正反対の君と僕』と較べてすれ違いのやきもきでの引っ張りも多くて、僕はそういうのでもだもださせられるのも楽しいけど「はやく付き合っちゃえよ!」とイライラしてしまいがちでもある。けれども本作の登場人物の誰もがかつて「好き」という言葉の指示対象が非対称なままに誰かと付き合い、痛々しく破綻した経験を持っているから、雑に「好き」とは無条件に素晴らしいもので、付き合うのが唯一絶対の解というふうなファストな読み方が許されていない描き方なのが素晴らしくて、「はやく付き合っちゃえよ!」と思いつつも、それがいいことなのかどうか確信が持てない。人間って難しいねえ、と思いながら進んでいく。はじめからなかった可能性を夢見ていた人と、はじめから対等な関係を作っていくことを諦めていた人とが、すべてが終わってしまった後、穏やかな気持ちで肩を並べて歩くシーンで、もうこれが最終回でいいじゃんという気持ちになっていちど読むのを中断した。あまりにもよい。人が呪いを解く、奇跡のような瞬間が何度もあって、このシーンの二人のしんとした晴れやかさは群を抜いている。はああ、いいなあ。

ようやく読み終えて、教室の、どうしたって自分の席が用意されているという事態を思い出していた。なんか、僕はぜんぶ居心地悪かったし、どうしたって嫌いだっただろうけれど、とりあえず毎日のように通って、共通の目的もなく、お互いに関心も持てないような異質の他者たちとなあなあに共棲せざるをえないあの環境は、面白いよな、とは思える。というか、これはどちらかというと制作の都合という観点での話で、最大公約数的な共通了解を前提としたうえでものごとを展開できるとか、すぱっと断絶で終わらせて済ませられない環境の設定とか、生活において人間関係が占める割合がものすごく大きい時期であることとか、そういう意味で学校というのは便利な装置よな、ということを改めて確認しているだけなのだが。あんなに切実だった十代が遠いな。本質的という言葉は好きではないが、教室に席があったあの頃のほうがちゃんと人生をまなざせていた。これは間違いがない。いまはどんどん、社会だとか体調みたいな、ちんけなものに目を曇らされてばかりだ。ほんとうは別に誰とも仲よくしなくても楽しく生きていける、自分が主人公である必要はない、そんなようなことを確信できたのは教室を出ることができたあとからだが、そうやってあの場の息苦しさを他人事にできたいま、とはいえ友達って大事だよねという素朴な事実にまっすぐ頷けるようにもなってきている気もする。フィクションの中の高校生のほうがずっと成熟してる。そもそもほとんどの十代は、魂の成熟に社会的に付与される機能が追い付いていないときにあげる悲鳴のような軋みなので、社会に適応していく過程で魂を鈍磨させてきた僕たちよりも成熟しているのは当然なのだ。

僕は年々なまくらになっていく。だからこそ、ねえ待って無理、と抱えきれない思いを作品に抱けるだけの受容体が自分に残っていることが頼もしいような、ほっとするような気持ちがつねにある。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。