昨晩はうまく寝れずに奥さんと遅くまで話し込んでいて、ふとした拍子に僕の歯に黒ずんだように歯石がひっついているのが発見され、それも一つや二つじゃない、前歯にも黒い線が引かれていてずいぶん目立った。深夜二時、初診でもWEB予約を受け付けている歯科医の予約を取った。
それで今日は午前中から憂鬱だった。なんなら夢見も悪かった。急遽フランス旅行に行くことになり、ふだんのリュックのままとりあえず飛行機に乗るのだが、着替えも何ももってないし、と困る。すると中継地の空港内はくまざわ書店やユニクロが入っていて、もうヨーロッパに入っているはずなのだがそのへんのイオンみたいな空港だな、と思いながら仕方なくユニクロで着替えを買おうと思うのだが事情は他の搭乗者も同じらしくものすごい行列だ。パンツの柄で悩んでいるうちに乗るべき飛行機が飛んでしまって、僕はこれからどうやって生きていけばいいのだろう、と途方に暮れる。泣きそうだった。
歯医者のことを考えてみる。まず、うがいの紙コップが嫌いだ。紙コップのくせに何度ものうがいに再利用されるから、だんだんと自分の血と消毒液との残留物が紙コップの味と混じってきてまずい。それからなんか吸引するやつの匂いが嫌いだ。あれで吸われているとき、いつも舌の適切なポジションがわからないし、先端がピリピリ乾いてくる。あとあの削るやつでビャンビャンやるとき、口の中でカルキっぽい臭いの細かい飛沫が飛び散る感じも嫌いだし、ゴム手袋も嫌い。あの先端に鏡みたいな丸がついてる金具で様子を探る時、ガチャガチャと歯に当たるひんやりとした感触は結構好きではある。
午前中は悶々と『ディスコエリジウム』。ようやく一日目が終わって眠る。これは何日ぶんあるのだろう。海外文学好きに刺さりそうな台詞回しを浴び続け、お昼を食べながら、待ってくれ、なんてこった、などと呟いていたらゲームの悪影響を指摘された。家を出る。
歯医者のことを考えていた、その通りのことが起きる。ものすごい勢いでバツ、バツ、斜線、バツ……、と歯を数え上げていく。バツが多いのが気になった。C が虫歯で斜線が健康。そのふたつはほとんどなくだいたいがバツだった。バツはなんだ? どうやら歯医者にもよるらしく、推察しようがない。三十分くらいかけて上下の歯石が取られていく。一列終わるたびにうがいする。紙コップに血痕がつく。水を吐き出すと真っ赤で、黒い小さな塊がコロコロ転がる。レントゲンやら歯茎のマッサージやらもあり、仕上げは歯磨き指導だ。自分で鏡を持たされて、開けさせらた口に平凡な歯ブラシが当てられる。いいですか、こうして、歯茎と歯の隙間をこそげるように、歯茎ごと磨くような感じで磨いていくんです。歯ブラシで出ちゃう血なんてのは、悪い血ですからね。ぜんぶ出し切っちゃうくらいの気持ちで磨いていきましょう。そう教えられながら、一本十回ずつですよ、と細かく動かされる歯ブラシが歯茎から滲む血で徐々に赤くなっていく様子を淡々と見せつけられる。また紙コップで血を吐く。
終えると、口の中ってこんなにさっぱりするんだ! と感激する。換気した後みたいな爽やかさ。るんるんだ。
そのまま電車に乗って本屋lighthouse へ。H.A.B の什器に出迎えられて、本を吸い込むようにして棚を見ていく。染み渡る。取り置きしてもらった『ホラーの哲学』を受け取り、一緒に『IN/SECTS』の家事特集と『サラリーマンの文化史』も。ちょうど一万円くらい。そのまま軒先で関口さんとポイエティークRADIO の録音。お客さんを待ちながらだらだら喋り、来客があれば中断するスタイルでゆるく喋っていく。途中で小学生の乱入があったり、愉快な時間だった。関口さんが店内で応対している間、三人の小五が軒先のテーブルを囲んで一本のラムネを紙コップに分けながら、うめー、と飲んでいた。人懐こく、平気で話しかけてくる。
なんか誰かに似てる。
のび太のドラえもん、ちがう、ドラえもんののび太。
おい、失礼だぞ。
のび太が結婚する映画があるんだけど、そののび太のメガネがそんなかんじ。
大人になるとのび太ってこんな眼鏡かけてるの?
うーん。
てか眼鏡デカくね?
そうだね。
あ、バカリズム!
ねえねえ、ひろゆき知ってる?
知ってるけど。
へー、ひろゆき知ってる大人もいるんだ。
名言作る人だよ。
そうかぁ……
えっ、指輪の裏になんかいる!
虫だよ。見る?
なんか一個ズレてるよ
動いたんじゃない?
は?
つけてみたら? 格好いいじゃん。お似合いですよ。
裏側に甲虫がびっしり蠢いてるお気に入りのリングを中指にはめて、おもしろそうに人を殴るポーズを決めてケラケラ笑う。読んでいた『ホラーの哲学』を見て、それ怖い? と聞くくせに返答も聞かず、ぜんぜん読んでないじゃん! とまた笑う。もしかして読むの邪魔してる? と一人は気遣ってくれて、でもこうやって騒がしくからんできてくれる三人ともがそれぞれの好奇心と優しさに満ちていて、気分がよかった。彼らは彼らなりの気の回し方をしている。ラムネのビー玉を取り出して、俺たちは自在にゲップを出せる、と宣言した。ゲップを録音してくれ!
ゲップの大合唱を録音して、再生してやる。ゲラゲラ笑いながらまだゲップをしてる。お腹痛い! と一人がいい、じゃあおしまいだ、と三人ともその場を去っていった。ゲップをしすぎるとお腹が痛くなるんだ、と言い残して。ちなみに暗くなった頃にまた来た。そのときは本を読んでいる僕をほっといてくれた。並びのたい焼き屋とも馴染みのようで、町を使いこなしていて格好よかった。
結局断続的に録音は閉店まで続き、忙しい中つきあってくれた関口さんにお礼を述べて退散。帰りの電車で録音チェックをする。小五の元気さにニコニコしてしまう。夕暮れるにつれ鈴虫の鳴き声も入っている。すごくいい録音だ。
帰ってうきうき奥さんに歯を見せると、返ってきた反応で黒ずみが完全に取れたわけでもないんだな、と察する。歯医者で見た時は感激するほどきれいになったと感じたのにな。美容院と一緒で、時間が経つにつれ魔法が解けてしまうようだ。