国というものへの軽蔑はオリンピックあたりで閾値を超えて、今日みたいな日はいっそう「国民」であることへの吐き気が募る。国というものを起点に、多くの人の分断や対立を煽り、共同のための手続きやルールを軽視することで、身近な他人への信頼を毀損し、論理的思考の機能を停止し、日々の幻滅と無力感を膨らませるばかりだった一個人の道程の、あまりにみっともない蛇足としてこれ以上なく似つかわしい茶番が今日あった。
『20センチュリー・ウーマン』を観返していた。完全に理解することはできない、というところから、それでも、と理解を試み続けること、そうした勉強の営み自体の暴力性をも引き受けて、よりマシな人間になろうと努力を怠らないこと。あらゆる登場人物の、変われなさと、それでもなお他者を気遣おうとする振る舞いのやさしさ。どうしようもなくそうであってしまう個人の環世界の強固さを、自分自身の人生としては引き受けつつ、完全には肯定しないこと。その静かに苛烈な穏やかさとユーモアに打たれる。
観返そうと思ったのは木津毅『ニュー・ダッド』を読んだからで、とってもいい本だった。現実から目を背けることなく、それでも人間のチャーミングな部分に光を当てて、茶目っ気たっぷりにおしゃべりすること。理屈だけで割り切ることのできない「ときめき」を起点に繰り広げられる語りは、個人的だからこそおおらかで人懐こい。エトガル・ケレットの名前が挙げられるところでものすごく納得した。読んでいるときの感覚が『あの素晴らしき七年』と似ていたのだ。現実の厳しさを冷静に見つめつつ、悪戯っぽいユーモアで飾って楽観を捨て切らない態度。
ボン・イヴェールを聴きながら反芻していた。社会的な文脈に置いたときの意義だとか、構造を理論的に分析するとか、そういう作品との付き合い方も楽しいけれど、ただただ夢中になった経験を堂々と語り、好きなものをただ「好き!」と大きな声で言うことの素晴らしさを思い出させてくれる一冊だった。屈託なく作品に没頭するという経験は、世や人間への信頼を育み、守ってくれるのだ。
僕の出す文字はこの二、三年で気難しくなった。食べている社会がクソまずいから、最低なクソしか出ないのだ、と腐っているけれど、どんな時もユーモアとチャーミングを忘れてはいけない。どうせクソしか出ないのだから、せめて笑えるものをお見せしたい。